物事に完全な解決も解答も無いけれど、共通の原っぱはいつだって持てる

福田恆存の言う「横丁の蕎麦屋を守る」というのは、ある特定の場所や伝統を守るということだけでは無いと、自分は応用問題のように考えている。そうでなければ、何代も同じ家業を受け継ぐといったことが難しい、対欧米という外的条件に迫られて急激に変わらざるを得なかった日本の我々、そして老舗の名店といった存在と無縁な所に暮らす多くの人々にまるで関係の無い話になってしまう。
保守的な生き方というのは、良い悪い、合理非合理以前に、人は理性的な判断だけでは生きられず、それぞれの癖や習慣の惰性に支えられて生きているということを認めて、互いにそれを許し合う姿勢のことだと僕は受け取っている。「狂気とは、内面を理性で埋め尽くしてしまうことだ」という言葉があるが、何もかもに常に合理や善悪の判断を考えながら生きていたら、人は余裕や安定を失って神経症のようになってしまうだろう。
当然、生きる必要に迫られて、癖や習慣を変えざるを得ないこともある。理念というのは仮説であり目安であって、その通りに現実を運ばせなければ意味がないというものじゃ無い。逆に言えば、人間に完全な支えや解決を与えてくれる理念などというものはあり得ないと思う。ただ、人にとって癖や習慣というのはとても大きなものであって、それを変えたり失ったりすることは、とても辛いことだという意識、想像力があると無いとでは、他者への態度、配慮が大きく違って来ると思う。
客観的な善悪以前に、例えば行きつけの定食屋や居酒屋で飯を食うこと、店主や常連たちと顔を合わせるのが楽しみだったり、野球観戦や草野球を年中行事のように楽しんでいたり、もっと自分に引きつけて言えば、書店に通って本や雑誌を眺めることや、テレビやラジオの視聴習慣といったことも、身についた日々の支えだ。ある条件によって、それが失われてしまうことは常にあるけれど、その幸福感の記憶は残る。それがどう自分に重要だったか、正負込みで考えてみることは出来る。それを互いに提出し、認め合おうとすることも、横丁の蕎麦屋的な営為では無いだろうか。それを成り立たせるには、ネットであれ何であれ、使い方次第だと思う。自分の人生に現に大きなものを占めているものは、既に一つの文化であり、文化は常に正負を混在させているものだと思うから。横丁の蕎麦屋で無くても、共通の原っぱを持つことはいつだって出来ると。