福田恆存「「妻の座」という言葉を捨てよ」について

「私は男女・夫妻の平等に反対してゐるのではない。女性の解放は女性が目醒める事によつて可能になるといふのは浅薄な知見であつて、それにはまづ男性が目醒め、納得してくれなければ、どうにもならぬのである。男女・夫婦の間柄は労使の対立とは異なつて、片方が目醒めただけでは、お互ひに不幸になるばかりと決まつてゐる」「男はただ時の勢ひで頭を下げた。自分の相手の花子とか梅子に対してではない、一般に「女なるもの」といふ抽象名詞に頭を下げたのである。いや、女に対してでもない、単に平等といふ観念に頭を下げただけである」「大事なのは男と女ではない、夫と妻ではない、家庭である。家庭の原理は封建時代も近代もない、常に「仲好くやつて行かう」の一語に尽きる。嬶天下の方がその原理に適ふ場合もあり、亭主関白の方が適ふ場合もある。一概には言へない。が、夢、平等を原理とすべからず、和を原理とすべし」
福田恆存「「妻の座」という言葉を捨てよ」

これは、男女のことに限らない話と思う。たとえば一緒に家庭を営んでいくとか、具体的な目標に向けて落としどころを意識しないと、その為の現実的な工夫や妥協点も見えて来ない。人はそれぞれ、主張する力も、理解力や許容量もそれぞれなのだから、何をもって本当の平等かと考えると雲を掴むような話になる。
表面的に和を維持するために、一方が(誰かが)ひたすら我慢していたら健康な関係とは言えないが、そうならないよう配慮するとしても、我慢や配慮の量が本当に等分になることはまず不可能だし、だとしたらある程度はそういうものと諦めることも必要になる。どんな人間関係、集団、社会にしろ、完全な解決はないと自覚して、程度への感性の問題だと意識しながらやっていくより無いのだと思う。