権威好き序列好きの学校人間が文化をダサくする

「「井上(ひさし)は前掲の一文に書く。「現実の浅草はあんなものではない。銀行や役所と同じこと。仕事を大事にする役者や踊り子たちがほとんどで、そうでなければ曲がりなりにも興行など成立するわけがない」。(…)
なるほど。ただ、少年のころから、色川武大は学校をさぼって浅草に入り浸った。ひどい劣等感に苦しんでいた色川を支えたのは、唯一、自分が浅草という格別の世界でグレて遊んでいるという「矜持」であったという。
色川少年は「へんな連中」をほとんど同胞のように思って、あるいは崇拝して、あるいは同化して、生きてきたのだ。その浅草ものを否定されることは、色川自身が、そして彼の生きた黄金の時間が否定されることだ。
井上ひさしには口もきかなかったという気持ちも察することができる気がする」
『書評家「狐」の読書遺産』

「矜持」というのは各々が自分を支えているものだから、事情が違えは激しくぶつかったり、反発したりするのも当たり前だろう。だから、自分の「矜持」だけは開けて通されるべきだなんて偉そうなことは思わない。衝突も摩擦も避けられないとしても、誰かの「矜持」をそれと認める仁義は持っていたいと思う。
許せないと思うのは、趣味における「矜持」なんて「なくってもなくってもいいもの」の世界に、立身出世やお勉強と同じようなダサい序列や権威を持ち込もうとする奴ら。それこそ「俺が」と一人称で不確かさに賭けることもできない、今様のマニアとかオタク連中だ。
自分は環境にも懐具合にも恵まれなかったから、「映画館で観るのが映画」なんて立場は取らないし、そんな資格も無いが、年長の映画ファンがそう言いたい気持ちはいくらか分かる。文化的な体験というのは、時代や環境とその人の資質の化学変化による固有のものだから。
それを単に一元的な数で計れるものにしたい、できると考えているような学校人間を、俺は軽蔑している。