新雑誌『For Everyman/フォーエブリマン』創刊


新雑誌『For Everyman/フォーエブリマン』、ついに創刊の運びとなりました。
創刊号は、旧作日本映画を紹介する特集が並びましたが、読書、映画、音楽観賞といった営みを、僕たちひとりひとりが生きることと切り離さず、その一部として考え、語る、総合誌的なものを目指していきたいと思います。
「僕たちの暮らしそのものについても、同じ温度でざっくばらんに取り上げ、考える」 、「意識するのが辛いこと、言いにくいこと=切実なことほど、なるべく逃げず、恥ずかしがらずにゆっくり考える」、「難しいことは易しく、易しいことは面白く」、といったことを心がけながら、むしろ表面的にはブレつつ試行錯誤していくつもりです。
以後、お見知りおきを。よろしくお願いいたします。

For Everyman/フォーエブリマン vol.1


特集1 「いま、木下恵介が復活する」山田太一×原恵一 4万字超ロング対談 
「日本の社会はある時期から、木下作品を自然に受け止めることができにくい世界に入ってしまったのではないでしょうか。しかし、人間の弱さ、その弱さが持つ美しさ、運命や宿命への畏怖、社会の理不尽に対する怒り、そうしたものに対していつまでも日本人が無関心でいられるはずがありません。ある時、木下作品の一作一作がみるみる燦然と輝きはじめ、今まで目を向けてこなかったことを多くの人がいぶかしむような時代がきっとまた来るように思います」山田太一『弔辞』より
震災を経験し、バラバラな個人が貧困の影に怯えるいま、「近代個人の淋しさを人々に味あわせるに忍びない感受性を持ちつつ、自身はその孤独を敢えて引き受けて明晰な個人であろうとした」通俗を恐れない巨匠が、最良の後継者お二人の語りの中に蘇る。


特集2 大映「悪名」「犬」シリーズ再見&藤本義一ロングインタビュー 
「現実を安易に楽観せず、だからこそ否定面を大げさに嘆くほど呑気でもない」「苦しみ、哀しみを受け止めながら剥き出しにしすぎない、隣人への節度と労り」娯楽映画の安定感について。
今東光勝新太郎田宮二郎、そしてアルチザン魂を語る。(取材・構成 奈落一騎)他


未公開シナリオ『六連発愚連隊』全掲載&追悼高田純 
仁義なき戦い』と『ガキ帝国』を、結ぶミッシングリンク
「人や社会の汚れを認めず、否定すればするほど、極道は減ったかわりに、カタギ外道が増えてはいませんか?」
ピラニア軍団松田優作泉谷しげるらの熱き連帯。そして、笠原和夫の「100箇所の付箋」。


●『本と怠け者』&『For Everyman』ダブル刊行記念 荻原魚雷×河田拓也「高円寺文壇 再結成対談」
「誰もが明るく生きられるわけじゃないし、苦しく考えながら生きざるを得ない人生もある。地味な文学者たちに、そんな勇気と居直りを貰った」
下積み経験と、文学遍歴を語り合う。


書評 
山田太一空也上人がいた』  河田拓也
竹中労『聞書 庶民列伝 上』  佐藤賢
古市憲寿『絶望の国の幸福な若者たち』 渡辺真吾
『脚本家白坂依志夫の世界』 松本るきつら
高野真之BLOOD ALONE』 たかやまひろふみ


エッセイ
追悼 出崎統  松本るきつら
「祭ばやしが聞こえない 〜関東甲信越小さな旅打ち〜」  天野剛志


『For Everyman』発刊の言葉に替えて
ジャクソン・ブラウン&デヴィッド・リンドレー『LOVE IS STRANGE』について 河田拓也


表紙イラスト TAIZAN
http://www.facebook.com/pages/%E6%B3%B0%E5%B1%B1TAIZAN/154855114587879
写真 藤井豊(岩手県普代村堤防 4月撮影)
A5版 240ページ 1000円(税込)

新雑誌『For Everyman/フォーエブリマン』創刊

※新しい日記はこのエントリの下からになります。


●『For Everyman/フォーエブリマン』公式blog開設いたしました。http://d.hatena.ne.jp/foreveryman/ 
こちらでの通販も間もなく開始します。ブックマーク等、よろしくお願い致します。


●創刊のご挨拶。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20111023


取り扱い店一覧はこちら
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20111103#p2

クリード チャンプを継ぐ男


新宿ピカデリーにて。
公開2週目に入ったばかり。それも年の瀬の劇場としてはやや淋しい入り。
それでも、「いったいいつまでロッキーにしがみつくんだ?」とさんざん呆れられながら、蓋を開ければ『ロッキー・ザ・ファイナル』を胸に沁みる佳作に仕上げたスタローンが受け入れた企画なのだからと、確固たる信頼を持って臨んだ。


正直、脚本はやや散漫だったと思う。アポロの私生児であり、同時に母親も失って親戚や施設をたらい回しにされながら育ったアドニスが、父親にどんな複雑な感情を持っているのか。
アポロの正妻に引き取られ、まともな教育も受けて大企業で働いている彼の中で何が、激しく闘争心を駆り立てるのか、詳らかには語られない。
そして、アポロに対するこだわりはそのままに、彼のライバルで親友だったロッキーをすぐに頼る展開は駆け足過ぎるんじゃないか。
彼の頼みに一度は躊躇するロッキーが、どういうきっかけで彼を受け入れるのか。
僕が万事に説明や脈絡を求め過ぎているのかもしれないが、ただ省略というには散漫な印象を持った。
だから、アドニスの動機に一体化出来ず、物語に入り込みきれない。
ガッツォさんや酒場の親父まで、隅々の人々にまでふと人格を感じさせ、それを大きな物語に見事に収斂させていったあの第一作の見事なニュアンス作りとは、比べるべくもないと思う。


後半、ガンを発病し化学療法を拒否するロッキーが、延命よりもアドニスとの時間を選ぶのかと思いきや、闘病とセコンドを両立してしまう展開も、正直ちょっと都合が良すぎるな…とも思った。
しかし、そうした小さなちぐはぐさを、スタローン=ロッキーの年輪と存在感が、すべて説得してしまう。
今まで、不屈の闘志で立ち上がり続けて来たあのロッキーが、どうしようもなく病み、老いていく。かつての彼を重ねざるを得ない風景とシーンの中で、静かにそれを演じるスタローン。
ロッキー・バルボアという人間の人生に立ち会っているというこの感慨は、他のどんな映画でも得られないものだ。
そして、最後の最後、アドニスとチャンピオンの試合のクライマックスに響く、ビルコンティのあのファンファーレ。
アドニスの闘いの動機の独白の唐突さを補って余りあるものだった。


かつて、飛ぶように駆け上がった美術館の石段での、静かで胸に沁みるラストシーン。
何だか、細々と文句を言うのが申し訳ないようなもどかしい気持ちで、なかなか席を立てませんでした。


最後に。
ロッキーシリーズ未見の方は、1と3、できればファイナルを事前に観ておいていただけると、本作の味わいがぐっと深くなると思います。

ジャージーボーイズ


先週の日曜、新宿ピカデリーにてクリント・イーストウッド監督『ジャージー・ボーイズ』観た。本国では評価も動員も芳しくなかったみたいだけれど、公開して一週間とはいえ場内は満員。客層は老若男女まんべんなくといった感じ。


レイジング・ブル』とか、ちょっと昔のアメリカの貧民層を描いた映画が好きな僕には、好みど真ん中の映画だった。たまたま平和で育ちが良くて、だから優しい分暴力や下品さに狭量で、神経質な正義の為に逆に無自覚な差別にも囚われがちな僕らにとって、何か粗暴で愚かで意地らしい、人間の原型を見せてくれているような懐かしい気持ちになる。その中で平気で生き死にしているバイタリティに勝手に元気づけられたりもしている。
フランキー・ヴァリはじめ、『ジャージー〜』の登場人物からもこれを濃厚に感じたけど、陰惨さもバイタリティも前者のようにはこれ見よがしじゃない。
どちらが上とか下とか言いたくないけれど、育ちの悪さも、厄介な友達も、成功と好色も、家族愛もその崩壊も、みんなゴロンと「そこにあると」いった感じ。エピソードの断片を行間気にせずざっくり並べたような印象は前述のスコセッシにも通じるけれど、後味はずっと静か。しかし、枯れているというのも違う。


どちらかというと、青春の甘酸っぱさや、成功の高揚に裂かれた尺は少なく、下品で猥雑で寂しいトラブルが延々と続くのに、ラストのカーテンコールは、それを丸ごと祝福するように、彼らの曲そのままに明るい。無常とそれを生ききるタフさが解け合ったような不思議な後味。
イーストウッド、齢80を越えてこんなパワフルな映画を、とも驚くし、同時に徹底した成熟があってこその映画だとも思う。いずれにしても、彼のちょっと溜めの効いたヒロイズムが苦手という向きにも、この映画はお薦めです。
久しぶりにDVDが欲しくなった。



僕らの世代だと、『君の瞳に恋してる』ボーイズタウンギャングのバージョンで甘酸っぱい気持ちになってた。大好きだったドラマ『あまえないでョ!』の中でもよく流れたな…。


あと、こんなのも。

21日追記 上を書いた後につらつら考えたこと

●キャストについて付け加えるなら、能年さんもハルヤマ役の彼も頑張ってはいたけど、やはり思春期の不安定で性急な切実さを描くにはマイルドだし、年齢的にも落ち着き過ぎていたと思う。


●今だったら、日常に煮詰まった時のオルタナティブが、暴走族になる代わりに、日常に手を掛けることで大切に生き直したり、敢えて田舎暮らしをしたり、逆にオタクになったりすることだろう。前者は便利が贅沢だった当時とは逆の発想だし、オタクはまだいろんな意味でハードル高かった。


●社会の問題って、世の中が上り調子で勢い余っちゃったか、或いは下り坂で人間が衰弱しているかに大別できる気がするけど、80年代のあの頃って両者のはざかいの飽和点の鳥羽口だった。だから、安全に距離のとれるノスタルジーにならない。暴走族が繊細とか、居心地悪いんだろうな。

『ホットロード』


17日の日曜日、新宿ピカデリーで『ホットロード』を観てきた。
待ち時間にパンフレットを買うと、紡木たく先生のメッセージが載っている。
「これまで映画にしなかったのは、そっとしておきたかったから」
紡木さんは作品と読者の関係を大切にしていて、自分で何かを語り足したり、二者の関係に雑音が入るような場に作品を持ち出すことを極力避けてきた(紡木さんが作品の外で、これだけまとまった量の発言をされたのは、彼女のデビュー以来30数年間ではじめてのことだ)。
紡木作品の中でも『ホットロード』程、激しさと痛みに満ちた作品はない。その後の紡木さんは『瞬きもせず』で、激しい時代の痛みを癒すように(おそらく意識的に)沢山の笑顔を描き、後期作品では『ホットロード』で描ききれなかった母娘や家族の関係を静かに深めていく。
しかし、そんな紡木さんが、製作者と出演者に深い信頼と感謝を語り、僕達読者にまで「心を騒がせてしまいました」と言われている。只の宣伝や社交辞令とは到底思えない。彼女の気持ちに応える良い作品であることを願ったが…。


場内は約半分くらいの入り。後方の席には原作世代の姿も目立つ。しかし、公開二日目、お盆休み最後の日の昼間としては、かなり淋しい入りではないか。元々危惧していた企画(原作)と時代の相性の悪さがどうにも予感される。
危惧は映画が始まると現実のものになった。三木監督は『ホットロード』を、「時代を超えて普遍的なラブストーリーであり親子の物語である」と捉えたようだが、そこにそもそもの間違いがあったと思う。どれだけ力のある物語も、前提になる時代とメンタリティの背景が見えないまま、アウトラインが語られるだけでは、肝心なところが伝わらないということはいくらでもある。とりわけ『ホットロード』は、ある時代の渦中をリアルタイムで生きた若者自身が描いた、時代との関わりがそのまま本質に深く食い込んでいる作品だ。


この映画では、原作では何度と無く繰り返される、気性が激しすぎて孤独癖のあるハルヤマと、同じく寂しさや苛立ちを抱える和希の衝突やすれ違いが、ほとんど省かれてしまっている。(更に暴走族という、ヤクザまでは行かないにしても、外とは違う価値観で纏まり、動いている激しいツッパリ合いの社会に深入りすることで葛藤する二人、それが象徴する日常を一歩踏み出す憧れと怖れが、まったく描かれていない)
ハルヤマや和希の寂しさや苛立ちにあれ程僕らが共振したのは、80年代、価値相対主義というよりも、そこまで文化にも生き方にも幅が無く、生活には何不自由無いけれど、型通りに振る舞うことが自己目的化し、個々の事情や内面の問題は「無いこと」のように扱われる寂しさ…そんな状況を深刻に疑ったり掘り下げ話し合ったりすることが禁じられ、浮かれ流すことが言外に強制されているような「無価値主義」とでも言うべき空気に、僕ら自身が苛立ち、虚しさを感じていたからだ。そんな時代の渦中で、確かな手応えや人情を求めることの切実さを、性急に繊細に捉えたものとしては、『ホットロード』はあらゆるジャンルで突出した作品だった。言葉は拙なく、社会背景への言及や描写が特別になされていなくても、確かなものを求めて(時には自暴自棄になって)不器用、愚直に暴走し、折り合いがつかずに互いに傷つきあう二人の姿に、僕らは確かに「現在の渦中」を生きる仲間だと強く感じた。
その「繊細さ」が、今から見れば贅沢にも見えて理解を阻んでしまうかもしれないという危惧を、映画化を知ってから僕はずっと持っていた。


しかしこの映画には、あの時代を意識的に対象化し、その渦中に描かれた作品が孕んだヒリヒリとした痛みを、意識的に現在に繋ごうとする姿勢が全く欠けている。
逆に、当時22歳だった紡木さんの最も拙かった部分、人生論的なモノローグや台詞まわしがそのままゴロンと引用され、あの白いコマお背景を埋めるざわめきの断片が削られてしまって、妙にタメの利いた連続スライドのような画面で見せられるので、大袈裟で時代錯誤、かつ型通りの物ものとしてしか伝わって来ない。その中で一見拙い言葉と、大袈裟な物語の上澄みだけが語られると、「ホットロードってこんな陳腐な話だったか?」と錯覚してしまいそうだ。


映画を観ていて僕は、10代で初めて『ホットロード』を読んだとき、とにかく呆然と圧倒されながら、その一方で「今までを反省し、命の大切さを知る」という結論でいいのか?一方で彼らを苛立たせていた状況は何も変わっていないじゃないか、という物足りなさを感じていたことを思い出した。それ自体が彼らが身体を張り、命懸けで得た確かなものだという実感が足りていなかった。一つの物語の結論がすべての説明になっているはずもないし、人生は続く。何とも視線の高い、男の子っぽい読み方をしていたなと思うけれど、映画だけを見た観客も、痛みや苛立ち、それが生まれる背景という前提を欠いて、命の尊さだけが語られることに、白けたものを感じたのではないだろうか。


ともかく、この映画には、一度原作とその時代を愛を持って突き放した上で、彼らの拙さ、激しさに多くの人間が惹かれた理由を、意識的に現在に伝える視野が必要だった。その不足がストレートに動員に現れていると思う。
実際、映画では暴走族が何をしている集団かさえほとんどわからないし(原作は暴走族の汚い部分、膿んだ部分まで率直に描いたことも希有だったのに…)、ハルヤマの暴力や 、和希が家出して友人宅を転々とする場面なども省かれている。(若い観客に配慮してのことかもしれないが、貧富とか厄介で激しい正確とか暴走族という社会とか、生々しいことからはすべて逃げているようにも見える。そこに半ば未整理のまま体当たりして行ったのが原作の魅力で、そこを省くと時代も物語の鮮烈な陰影もぼやけてしまう)
それでも映画とは無関係に、原作の命を健在だと信じるが、それを今に伝える重要なチャンスが逸せられてしまったことを本当に残念に思う。実際、僕ら以上に若い世代にとって取っ掛かりのない映画だったのではないだろうか。


しかし、映画と原作は別物と分かっているのに、『ホットロード』観てから丸2日、拍子抜けしたような虚しさが抜けなくて辛い。まだしばらくは引きずりそう。三つ子の魂百までというか、どうして紡木たく作品のことになるとここまで気持ちが揺れてしまうのか。情けない…。

ホットロード 1 (集英社文庫(コミック版))

ホットロード 1 (集英社文庫(コミック版))

ホットロード 2 (集英社文庫―コミック版)

ホットロード 2 (集英社文庫―コミック版)

年末のご挨拶と、私的ベスト5

同年輩の友人ライターたちとの恒例行事になっていた、年末の私的ベストテン、昨年は書くことができませんでした。
実は2年ほど前、私生活で大きな変化があり、それをきっかけに心身の調子を崩してしまいました。
抑鬱症状が出たことは、以前にも何度かあったのですが、その時は薬がなかなか合わず、面倒で呑むのを止めてしまったりしているるうちに自然に良くなったので、今回も最初は軽く考えていたのですが、段々活字がまったく追えなくなり、テレビや映画を観るのも怖く、起き上がって近所に買い物にでかけるのもしんどいような状況になってしまいました。
例によって処方して貰った薬がなかなか合わず、副作用に悩んだりしたんですが、知人に紹介してもらった心療内科との相性が良くて、徐々に小康を取り戻しつつあります。
それでも今年の前半くらいまでは、通院するにも電車に乗るのが怖かったり、駅貼りの看板を見ているだけで世の中にとり残されているような堪らない気持ちになったり、相変わらず活字や映像が受け付けにくかったりしていたのですが、夏あたりから少しずつ映画を観に行ったり、本を読んだり、負担の少ない取材仕事をこなしたりできるようになってきました。


長時間の外出や面会が難しいような時期がかなり続いて、多くの方に不義理をし、またご心配をかけてしまいました(小心者で、病気のことも最低限の方にしか伝えていなかったので、たまにお会いする方の前では無理に平静を装ったり、そのため結果的に却ってご心配をかけてしまうようなこともしばしばでした)。
そんな状況の中で、何人かの友人、知人には、立場を逆にして考えれば、とても自分などには考えられないような、ほとんど信じられない程の御厚意を受けました。本当にお礼の言葉もありません。そうした方たちの多くは、同じ病気を患った経験があったり、今も闘病中の方でした。


病気の直接の原因は、生活上の大きな変化だと思いますが、若い頃は結構平気で不安定な生活を続けていたのが、ここにきて無理がきかず、ダメージを強く感じていることに、自分でもかなりショックがありました(世間の基準で考えれば、まさに働き盛りの年頃で、こんなことを口にするのは恥ずかしい限りですが…)。
あと、もう一つ不安の遠因として、文章を書く上での動機や意欲の変化があるように思います。僕は、若い時から持ち続けている個人的な不如意や違和感、ストレスを主にエネルギーとして書いてきた部分が強いのですが、それが解決しないまでも、時間と共に風化したり、或いは向かい合い続けるにしても、別の距離の取り方や、新しい角度を必要とする年齢になったのだという実感を強くしています。
今にして思えば、30代は、まだ20代の延長のようなものだったなと。
病気の方は、なかなかすぐに完治とは行きそうにありませんが、緩やかに共存しつつ、徐々に新たに書く体制を試行錯誤していけたらと思っています。
雑誌『For Everuman』も、刊行の間がすっかり開いてしまいましたが、徐々に新しい企画も考えていきたいと思います。
どうか皆様、今後ともよろしくお願いします。


●2013年に観た映画 私的ベスト5
1.『情婦』ビリー・ワイルダー
去年から今年にかけてはロードショー館にも名画座にもほとんど足を運べず、懐の寂しさもあって旧作のDVD観賞が主となってしまいました。それも、もやもやと良くないことを思い煩うきっかけにならないよう、罪のないコメディや、現実離れしたサスペンスがメイン。ワイルダーのコメディも沢山再見しましたが、本作は所見。それもコメディではなく、クリスティ原作のサスペンス。ワイルダーらしく、ユーモアを交えた人物描写が巧く、その説得力がそのままトリックを補強する形になっていて唸りました。キーパーソンを演じたマレーネ・ディートリッヒは、当時50歳を超えていたとは信じ難い美しさ(御御足も含めて…)に加え、トリックと知っても尚驚きが消えない迫力の演技で、心底圧倒されました。


2.『北北西に進路を取れアルフレッド・ヒッチコック
僕は元々映画も読書も、感情の機微のやり取りと行ったことにしか興味が向きにくい方で、この年までまともにミステリーには触れておらず、恥ずかしながらヒッチコック作品もほとんど初見。今年は半ば中毒のようになって、代表作はじめかなりの本数観ましたが、打率の高さに圧倒されました。中でも心底楽しんだのが本作。ケイリー・グラントがふとしたことから(架空の)スパイに間違われ、危機また危機。観ているこちらも、事情が呑み込めず、先の予測も付かないまま振り回されていて、まったく退屈しない演出力と脚本の妙。


3.『SRサイタマノラッパー』北関東3部作 入江悠
今更ながら、しかも3本纏めてですみません。そのくらい、登場人物達に親しみを持ってしまって他人の気がしない。北関東の、緑が砂埃に煤けたような風景に、コスプレみたいに冴えないヒップホップスタイル。寂れた田舎の情けない青春、いや、青春らしい青春の入口にさえ立てないでいる奴らをカメラは淡々と追うけれど、根っこにどこか愛情があって、気が付くと可愛く感じてしまう。田舎には住めない蓮っぱな元AVギャルとの淡いすれ違いもクールで良い。
2の女子ラッパーは、やや同工異曲感無きにしもあらずだったけど、やはり可愛い。
3、一人一念発起、東京を目指したマイティが、『闇金ウシジマくん』や『ヒーローショー』のようなヤバい世界にずるずると足を突っ込んでしまう皮肉。しかし、最後は留置場まで落ちたマイティにも、優しい入江悠監督は夢を捨てさせない。
ある意味、モラトリアム礼賛映画とも言えるけれど、遠い異国のストリートカルチャーのスタイルと魂に、名もないどん詰りの人間たちが憧れ勇気づけられる様は、どうしても観る者の心の柔らかい部分を刺激する。


4.『風立ちぬ宮崎駿
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20130730#p1 参照


5.『かぐや姫の物語高畑勲
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20131216#p1 参照
ジブリの二本、両篇とも予告には非常に期待が膨らんだが、本編の感想は微妙。
演出や芝居が、説明最小限ということもあるけれど、それ以上に、必要な展開がどちらもごっそり抜け落ちているような、もやもやした気持ちが残る。
それで良くも悪くも、印象が後を引いている部分もあるのだが。


番外1.『はじまりのみち』原恵一
この作品については、客観的な距離で感想が言えない。
とにかく、木下恵介監督の映画を原恵一監督が撮るという企画の、小さなきっかけの一つを『For Everyman』の対談が作ることができたことは、望外の喜びでした。


番外2.『ベイビー大丈夫かっ ビートチャイルド1987』
これは、映画の出来云々以前に、とにかく懐かしかった。
それまでの歌謡曲やニューミュージックに対して、急速に聴かれるようになった、恋愛以外の諸々を激しく日本のロックが、リアルタイムの僕たちにとっては、本当に新鮮だった時代。
今の耳で聴けば、以降のJポップの雛形のようで平凡に聴こえるかもしれないし、その後のバンドブーム以降の方が、歌の内容も演奏も遥かに多彩でクオリティの高いものも多かったけれど、そうした爛熟以前の新鮮さと熱量だけは、この映像からもはっきり感じ取れる。


●2013年に読んだ新刊ベスト5


1.山田太一『月日の残像』
季刊誌「考える人」に9年に渡って書き継がれたエッセイ集。近年は比較的よくエッセイを発表されるようになった山田さんだけれど、同志発表のものには、特に力をいれられている印象があり、コピーを取ったりしながらずっと纏まるのを楽しみにしていた。
作品ではご自分のことを直接には語られない山田さんだけれど、このエッセイでは、少年時代の母親の死や、松竹の助監督時代の失敗談などを忌憚なく書かれている。これ見よがしというところとは程遠く、けれど、無意識に残る感じ方、考え方の癖など(特に、飢えの経験からくる、食に関する執着など)がふと浮かび上がったり、またある時は記憶の歪みに気づいたり。
山田さんのエッセイはとても思索的で、それが少しいわゆるエッセイ読者を遠ざけてきた面があるような気もする。ご自分の考えや感じ方を容易く信じず、長年にわたって何度も結論をひっくり返しながら考えられる山田さんを、僕自身インテリ的で捻りすぎた物言いではないかと感じていたこともあったが、山田さんはこの揺れ続ける姿勢を崩さず、結果80歳を迎えられようという現在、深みと柔らかい瑞々しさを併せ持たれた素晴らしい書き手になられていると感じる。山田さんの作品、殊にエッセイは、今が一番良いと僕は感じるし、この齢になられても更に成長(という言葉が適切かどうかわからないが)を続けられているという事実に、驚きと希望を感じる。


2.春日太一『あかんやつら』
戦後、新興の映画会社として、凄まじい量産体制で時代劇、任侠映画といった大衆娯楽の最前線に躍り出た東映。その中枢である京都撮影所で、薄給、激務を技術とプライドと物作りの絆で乗り切っていった映画職人達の熱い群像劇。山田さんの1冊が無ければ文句なしの第一位です。
以前、『男たちの大和』の取材の時、当時東映の社長をされていた高岩淡さんのお話を伺う機会があった。岡田茂さんや佐藤純弥監督との労働争議の話なども生々しい話も含めた、東映京都撮影書に関するお話は、内容も語り口も余りにも面白く、面白すぎてつい、やや話半分に聞いてしまったところがあったが、本書を読んですべてその通りだったことがよく分かった。
それ以来、岡田茂さんにも、東映での通史を伺ってみたいとずっと思っていたが、数多くの関係者や職人さんのお話と併せて、春日さんは僕などが考える何十倍もの濃さで、それ自体熱い活劇のようなノンフィクションを書き上げられ、羨ましいのを通り越して、唯唯感謝の気持ち。


3.木皿泉『昨夜のカレー、明日のパン』
ご夫婦の脚本家ユニットである木皿さんのドラマの、自分は良い受け手とは言えなかった。日常を丁寧に描くという触れ込みだったけれど、その部分が自分にとっては淡すぎ、或いは寓話的過ぎて、それについてのアフォリズムやメッセージのみ浮き上がっているように感じられていた。
が、その後、お二人の私生活と創作に密着したBSのドキュメンタリーから強く興味を惹かれるようになり、この小説を手に取った。冒頭の一篇だけ、ドラマに感じたような取っ付き難さを感じたが、他の短編はほとんどそうした抵抗を感じすに読むことができた。
夫を早くに亡くした女性とそのギフ(義父)という、ある意味不自然な家族と、その周辺の人々の物語。これ見よがしではないけれど、主人公は喪失感や、「家族」という出来合いの共同体への違和感を持っていて、だからこそ、やや距離があり、どこか意識的にもなるギフや隣人との関係の中に生きている。意識、無意識に持つ、そうした心の澱や飢えに、ふとしたことから向かい合い、言葉や物語によって、解決とはいかないが、それと共存していくささやかな力を得る。
自分は特に、主人公の親の世代を描いた『夕子』に、良い時の橋本治の短編に感じるような好感を持った。こうした、生活のディティールを大切に描いた作品を読むと、自分がいかに「まともな生活」から遠くにいるかに溜息が出る。


4.星野博美『戸越銀座でつかまえて』
長年ともに暮らした愛猫の死、また、お洒落な消費者達が闊歩する街に変貌した居住地吉祥寺に疲れて、「独り暮らし」に敗れた著者が、実家の戸越銀座に帰り、家族や地域共同体の中で、微妙な距離を取りつつ生き直す日々を描いたエッセイ集。
前書きを読んでいて、星野さんの疲れた様子に他人事でないものを感じて心配になったが、本文に入るとそうした切迫したトーンは薄れ、地域共同体の良さと面倒臭さの両面、それをうまく味わい、また交わしていく小さな工夫や試行錯誤が語られていく。弱られている時でも、しっかり視線は外に開かれていることに改めて敬服。
僕は、星野さんの持つかなりきっぱりとした正義感(倫理観と言った方がいいか)に、かねてから好感や尊敬を感じると同時に、自分の基準とのずれや違和も感じてきた。もっと身も蓋もなくいえば、自分がだらしないので自他共に許しがちな(良くも悪くも…)ことに対して、きっぱりと厳しい言葉をぶつけられることに対して畏れや違和を感じることが少なくない。本書でも、3・11の買い占め騒ぎの日々に対してかなり厳しい言葉が向けられていて、僕はむしろ余震と輪番停電の不安の日々が蘇って、「あの先の見えない混乱の中では、ある程度のパニックは仕方ないのでは…」と思ったりもした。が、全体には、少し弱られてより思索的、内省的になられた星野さんを、(中年になった)自分はより身近に感じるようになった。


5.関純二『担当の夜』
これも大衆娯楽の最前線、週刊青年マンガ誌の元編集者による、「人間の限界を超えた」激務の日々を描いた私小説。僕は、モデルが比較的分かりやすかった最初の2篇以上に、海のものとも山のものともわからない新人に、振り回されつつ向き合っていく話が最も胸に沁みた。が、どの話も、とことん作家に付き合い、振り回されながら、ある一線でプロの仕事としての割り切りを持たなければならない厳しさが滲む。時に静かに、時に戯けつつ、感傷に流れるぎりぎりのところで綴る、筆致のタフさとナイーブさの入りまじり具合が、また青年誌の現場の性質を感じさせて良かった。

次点 渡辺京二『近代の呪い』(平凡社新書
江戸庶民の暮らしぶりやその後の近代化の内実、フランス革命の背景の複雑さなどを通して、庶民の中間共同体が解体され、個々が直に国家と向き合うことになった過程の正負両面を語る講演集。
言葉は平易だけれど、広範な内容を大まかに駆け足で語られたものを、無知無学な自分が丸呑みする危うさも感じ、話半分のつもりで面白く読む。共感対象の負の側面、批判対象の正の側面を入れ子のように語り、主張の一元化を極力避けていることに好感を持った(たとえばラトゥシュの、経済を1960年の規模まで縮小する提案に共感しながらも、そにある岡倉天心大川周明アジア主義のような、単純な一元化に陥る危うさを指摘するくだりなど)。
しかし一方、パリコミューンに身を投じた民衆たちに、民衆の熱狂の無方向の危うさを重々知りながら感動せずにいられなかった大佛次郎を語るように、渡辺さんも、フランス革命の理念の危険な思い上がりを徹底的に批判した上で、それでもその底にある「おとなの現実主義の奥底にこの幼い叫びが、たとえかすかであっても鳴り続けていなければ、この世は闇だ」と一言、ナイーブにつぶやく。そこに自分は危うさも共感も感じる。