武田泰淳『雑種』より火野葦平についての記述

火野葦平の実物を眼にしたのは、はじめてだった。肩幅のひろい頑丈そうな男が有名な兵隊作家であることは、すぐ察せられた。火野氏が厚着をしているようにみえたのは、ほかの文学者にくらべて、一段と体格がよかったせいである。彼は質素な背広姿だった。それは誰かの服を拝借しているかのように、無造作に彼の体を包んでいるだけだった。服装ばかりでなく、彼の言語動作のすべてが、実に無造作で、表情も楽天的であるかのようにうけとられた。彼は、駅に着くたびに窓からのり出して、ホームに立っている物売りの中国人に声をかけた。ただ座席におとなしくしているのが、もどかしい様子である。彼の兵隊もの「麦と兵隊」「土と兵隊」「花と兵隊」を愛読していた私は、中国の農民たちと、何のこだわりもなく接している彼の生活態度を思い出さずにいられなかった。日本人に対してよりも、むしろ、窓外に立っている見知らぬ中国住民に、どうしても声をかけずにいられない彼の心理も、私にはよくわかった。(…)
彼はおそらく、汽車が上海に到着する前に、所持金を残らずバラまいてしまいたいと思っているにちがいなかった。ことに、南京で貰った金(代表の一人一人が、いくばくかの金を貰いうけていることを私は知っていた)など、懐中にしていることがイヤでたまらないので、よけい散財を続けているらしい。彼の健康な明るい笑顔は、どの文学者にもみられないものであったし、彼のこだわりのない態度も印象的ではあったが、しかし、彼のむきだしの明朗さの底で、何か暗いものが、ときどき黒い光の破片をまき散らしては、また、とりあつめて、彼の内心に蔵いこまれているようにみえた。(…)
こんな兵隊は見たことがなかった。こんなインテリも見たこともありはしない。第一、私は貧弱な輜重兵だったことはあるが、一人前の工兵でも歩兵でもなくて、弾丸雨飛の最前線で戦ってきた彼とは、くらべものにならない」
武田泰淳『雑種』