更に、六月四日分に対して

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福田恒存が、いつも二律背反を設定し、飲み込んで、行きつ戻りつしながら語っているというのはそのとおりだけど(引用した文書だってもともと私小説的な欺瞞に対する話であるように)、あなたも「時代の制約」とおっしゃるように、ある状況、そして人により場合により、どの側面を言うことが必要かってことを判断し、決めながら彼は言葉を発してる。
具体的な対象を前提にすることをせずに話していると、しばしば人は自分の基準や前提にこだわってひとりよがりになり、議論はただ自分の思い込みを守るため、言いっ放しの、ただ「為にする」ものに堕しがちだね。


福田恒存が安易に「流通し、享受し得る」ような情報を文化と認めていないこともそのとおりだと思うけれど、だから今、文学として流通しあなたが享受しているのは、もはや文学じゃない(かもしれない)という認識は持つべきじゃないかと、言ってるんだよ。
そして、その(自分の)現実について否定的な視線を持ち、同時に絶望することも必要なんじゃないか、と(安易に居直ったり、自己合理化するのではなく。そして、変われないなら変われないなりの筋の通し方、倫理の持ち方を考える必要があることも当然)。


坪内と小林(西部と福田でも何でもいい)、どっちが優れてるとか、赤勝て白勝てをやることに、俺はまったく興味がない。
小林よしのりは、文化を欠いた状況の中でその情念を観念化させて、答えを求めること、立場を固めることに性急になることが多いのは確かだと思う。
坪内祐三は、今俺があなたに言ったような意味で、小林よしのりに、自分の現実の認識と絶望が足りないと言いたそうだけれど(俺は、小林よしのりは相当にその現実に苛立ち、だから「自分はそうじゃない」と抗っているようにみえるし、彼の中の結論はどうあれ、本気さとリアリティは感じる。全然足りないって見方もあるんだろうけど、俺はそこまで自分を高く見積もれない)、だからといって、坪内祐三がそこを免れており、別枠として信用できるとも、全く思わない。
認識によって繕いながら、自分の環境や体質を批判的に相対化することに対して相当に不徹底で、そうした利己や弱さを繕うために批評と処世のすり替えを巧妙にやっちゃうような部分が多分にある人だと俺は思うし(体質的には、福田恒存というより、例えば大岡昇平からやんちゃな少年性と余裕をひいたような感じに見える)、そこは気をつけて距離をとりながら読みたいといつも思う。
小林よしのりの「結論」を鵜呑みにできないのと同じように。