武田泰淳「三島由紀夫のことー一九七四年夏の談話ー」(「海」77年1月号)

『富士』を書いていて、最後をどのようにまとめようかと考えていたところで、三島由紀夫さんの事件がおこったんです。彼が死んでくれなければ、終わらなかった作品ですよ。三島さんが死んでくれたおかげで、なんとなく筋が出来ちゃったような気がするんだな。だから死んだあとに書いたところは、まあ小説的なことのようだけど、非常に暗示的なんだね。
三島さんはなんていうんだろうなあ、…思いつめる人でしたね。あんなに思いつめるということは普通の人には出来ないことですよ。それはほかのことは何にもわからなくなる傾向。だからああいう三島さんの結論になっちゃったわけだね。遊んでるようだけど遊びの要素があんまりなかった人でね。なんといっても優秀な学生であって、かならずトップになることの出来た人だからね。何をやってもトップになれる。思いつめるというのは、精神を集中できるってことだね。だからどうしても夢中になるんですね。ぼくなんかはそんなに思いつめないですよ。負けたら負けたでいい。落第したら落第でいい。ですから三島さんみたいになることもないんですね。彼はいろんなことがきらいになったり、いやになったりしたとおもう。それがだんだんつもりつもってね。文学賞の選考委員をいっしょにしてたけど、毎年、賞をやったり、とったりすることがいやでいやでしょうがなかったらしいですね。最後は。思いつめてるから、馬鹿々々しいとなると、こんどは行動ということになるわけだけれども…。自分が暇つぶしをすることに耐えられなくなってきたんじゃないかな。
それに年功序列は大嫌いだった。そして一般的な評価もひとつの価値だということを、ぜんぜん認めなかったでしょう。したがってだんだん、狭くなってゆくわけですね。一般的に言って、こうなんだと言っても受けつけなかったな。よくやってるじゃないかなんて言ったって、ぜんぜん聞かなかったからね。だから居直ったりすることになっちゃうわけでしょう。あの人もきらい、この人もきらい。きらいな人の作品は認めなかったんだ。
よくやってる程度じゃ、我慢が出来なかったんでしょう。三島さんは完璧主義者だったんですね。しかしいくら天才であっても、毎年、名作を花火のように打上げるなんてわけにはいかないでしょう。最後の作品『豊穣の海』の四部作には、不満だったんじゃないかとおもうな。自分では花火が上がってないような気がしてたとおもうんだ。というのは作品がわるいというよりは、精神状態が行為のほうにいってるため、それと同時に仕事がすすんでいてね。実際には自分で効果のわかる人だったから、先の方までちゃんと見通しをつけている。これを起こせばこういう効果があるとね。わからないでやってる人もいる。ぼくなんかはそのほうだけど…。彼はほとんど文学を否定しちゃったんじゃないですか、文学を。
三島さんは文壇的出発のときから川端康成さんを師匠としていろいろ相談してきたとおもうけど、最後はいやになっちゃったんだ。川端さんのニヒリズムがいやだと言い出したんだよね。きらいだと言っていましたね。まあ川端さんからニヒリズムを取ったら、何ものこらないからね。どうしてそうなったのか、やっぱり偶然にも川端さんのノーベル賞受賞のころから、それがはっきりしてきたんですね。川端さんでは満足できなくなったわけです。それかといって日本の古典では満足できないだろうし。『源氏物語』を読んでも『聖書』を読んでも、あんまり感動をうけなかったでしょう。仏教の方は、作品のなかによく使ったけどね。それはあまり仏教的態度とは言えなかったからね、あの事件は。儒教みたいな態度をとったんだから。
三島さんは、日本の文学者がだらしなすぎると見たんだろうな。文学者の反対のことをやってやろうとすれば、天皇制しかないからね。だからどうしてもああいうふうになるんだよ。最後に『蘭陵王』という短編があるでしょう。富士の裾野の自衛隊に入って、戦闘訓練をする話。ほんとうに自衛隊の仲間が美しく、感じられたわけだけどね。演習と実戦はちがうからなあ。実戦のときは全部をさらけ出しちゃうけど、演習はそうではない。だけど三島さんは自分というものを信じていたことは確かだね。だからニヒリストじゃない。自分というものがあって、そのまわりのものは、シャクにさわることが多かったのでしょうね。
いくらいやだとか、きらいだとか醜いと言っても、三島さんには、醜というものは、わりあい出てきてないでしょう。醜は美と反対のものとして観念的に出てくるものなんだけどもね。自分が罪におちいらないで最後を遂げられるという発想は、三島さんにあったでしょう。だから生き永らえちゃ具合がわるいということになる。天皇制に仮託して、自己のために殉じたところがあるんですね。頭のいい人だから、矛盾とかなんとかはよくわかる人だし、いい加減なことは許されなかったんだろうなあ。まあ仮託しながら、結局は自己に殉じたようですね。自己の性分としてあいまいにしておくことはできなかったんだろうな。それだけ、ある点では狭いですよ。狭くならざるを得なかったんですよ、三島さんは。

 

三島さんは、戦後はやくから作品をつぎつぎと発表して、われわれの眼をみはらせた。年はひとまわり以上もちがうけど、ぼくと同時代の作家だった。その才能は実にすばらしかったとおもう。反感をもつまえに、まず感心しなきゃならなかったんですよ。すべての点においてすばらしかった。梅崎春生さんなんかもそうだったとおもうね。
その才能を最初にみとめたというよりは、びっくりしたことは確かなんだ。いろいろ文句はつけられるけど、才能の花が咲いたということははっきりしていたとおもいますよ。椎名鱗三さんの場合は、その思想の中身で、感心したというか、いろいろと理屈があっていくのだけれど、あの人はまったく才能だけがパッとひらいてね。われわれとは完全に異質の別物だとおもったが、それにもかかわらず、いいんだな。実際、ぼくらでもね、自分の考えとかまわりの風景とはちがっているけれど、それがまたひとつの魅力だったんだな。つまり知らない世界がね、実際にあるということね。うまく書けてたね、びっくりしたな。これはどうにもしようがないんだよ。
人工的なにおいは感じたけど、初期の短篇群にしても『仮面の告白』にしても『真夏の死』にしても、やっぱりよかったなあ。ちょっと高級なんじゃないかとおもったよ。ぼくはわりあい三島さんの作品を認めていた方だからね。文句なしにね。第一次戦後派の仲間たちとはちがうとおもいました、しかしちがうのは、三島さんが優秀であるからちがうんであってね、まあ、どっちかといえば、小説をつくる優秀な機械があらわれたという感じだった。
三島さんの太宰治ぎらいは有名な話だけど、太宰はめそめそした弱者の文学を売りものにしていると、三島さんはよく言ってた。しかし太宰は若い人たちを読者にしたからね。太宰の方がむしろ安全に読者をひろげられるタイプじゃないかなあ。三島さんの作品には、ちっともかわいそうなところがないからね。
文壇生活のなかでは演技たっぶりなところがあった。そりゃ、しなければいられないものね。ぼくら第一次戦後派はそんなに演技しないですよ。ボソッとしてますからね。つまりヤボテンなんだよ。スタイリストにはなれないんだ。事実、無芸大食っていうかな、そう演技できないタイプでしょう。椎名さん、梅崎さん、中村真一郎さん、また花田清輝さんにしてもね、第二の自分をつくって売りこむという才能はないね。三島さんにはその才能があったんだ。それでまた演技がうまかったんだ。効果的だったね、彼のやり方は。演技者であるとともに、すぐれた演出家だったね。
ああいう人が同時代にいると、凡庸な才能は消されてしまいますね。相手をゼロにしちゃうんだ。そんな力があったね。ただ人間というのは、無限にひろいから、それでだいぶ助かってるけどね。もうそれほどやらなくてもいいんじゃないかとおもわせたところがある。三島さんの限度を逐うわけにはいかないから、それで助かってるんだよ。ぼくはそれを感じたね。

三島さんのロココ趣味、あれは日本人にはめずらしいタイプだとおもうけど、なにか一種の偽悪的なものだったな。彼の家にはターナーがひとつ、かかっていたけど、それを吉田健一さんが見てね、「ターナーなんか今時分、日本にあるわけがない」なんて言ってました。まあ、それはひと
目みて偽物とわかりますよ。だけどそれで平気だったんだな、三島さんは。偽物であるということをちゃんと知っていて、恥ずかしがらずにやっているところがありましたね。
三島さんが馬込の家を建てるとき、建築家と喧嘩したという有名な話があるでしょう。そんな趣味はよした方がいいって、建築家に言われたけど、かまわずに作らせたという話ですね。三島さん自身、建築家からそう言われることは承知の上だったわけなんだね。日本の風土にあわないし、たいへんなお金がかかるし、…しかしそれをやって楽しんでいたんだね。偽物でもなんでも、そういう雰囲気が出てくれば、よかったんですかね。芝居の舞台の書割とおなじなんだ。本物は一つもない。だけど雰囲気は出てるよね。その程度でよかったんじゃないかな。だから川端康成さんの骨董とはちがうんだ。あれは本物でなくちゃいけないわけだから。その点、三島さんは加藤唐九郎と似ているところがあった。唐九郎の作品であることには間違いないわけでね。ともかく偽物を作るというのは、容易なことじゃないからな。
三島さんの育った環境は一種の中産階級だったでしょう。貴族でもなければさむらいの系統でもない。お父さんとはまったく違っていたね。お父さんは冒険をやったりすることなんか、なによりもきらいな人だったでしょう。間違いのない人ですね。だからお母さんに似ているのかもしれませんね。三島さんの昭和の鹿鳴館みたいなもの、それを意識してそれをやったらね、鹿鳴館は最後まで許せない偽物であるとおもう人がひろがったでしょうね。どうせ日本の近代文化はそういうものだと…。
三島さんはそこまで考えた上で、よく感じとったもんだとおもいますね。鹿鳴館文化が日本文化である、現代日本文化であるとね。だから彼は外国作家は二流というか、ちょっとワキにそれているような作家しか認めなかったでしょう。正統派の外国文学はあまり好きじゃなかったようですね。ドストエフスキーなんかは、あまりまじめに読まなかったような気がする。スタンダールでもバルザックでも翻訳で全部読んでいただろうけども、関心もないし自分の材料にもならないとおもっていたところがあったね。その点、徹底していますね。ジャン・ジュネなんか身近に便利に使えるものとして読んでたでしょうが、もともとサルトルなんかきらいだからね。普通の人だったら、トルストイだとかゴーゴリだとかチェーホフだとか、それからフランスでいえば、ヴァレリーとかマラルメとか、そういうものを使うわけですけどね、あの人はまったくそういうことはなかったようにおもうな。ただときどき引用するくらいでね。ラディゲとかリラダンとかポール・モーランなど、そういう小粒な作家を熱愛していたようにおもうな。
三島さんのお宅には何回か招ばれたことがあった。招ばれたことはあったけど、招んだことはなかったので、彼は怒ってたんですよ。招ばれたら、かならず招びかえすのが礼儀だと言っていたからね。ぼくんところには一度も来たことがない。招ばなければ、彼、来ないですからね。ほんとはね、うんと御馳走してもらったんだから、招ばなければいけないんだけれども、ぼくの家というのは三島好みじゃないしね。見せるものはなんにもないからね。それが不満だったらしい。
人を招待するときは、そりゃもう、万事手ぬかりがなかったね。まず酒の出し方からどこでどんな話をして、どこでどんな話をしないか、気をつかってましたね。お酒はたくさん並べてあって、かならず好みを聞いてから開ける。それでそのときはこの電気をつけてという具合。紫色の葡萄みたいな明かりがポッとつくようにね。だいたいみんなの酔い加減でそれをやるんだ。それがすんじゃうと、こんどは二階の踊り場に上って、話をする。それからまた下へおりてきて、というふうなんだな。ぼくはよく知らないけれど、西洋で招ばれたときのようにやってたんじゃないかな。西洋のやり方なんだ、あれは。
ぼくが三島邸に行ったのは、鉢の木会のゲストとして招ばれていたからなんです。あるとき、福田恆存さんが「あれ、変だな。武田が来てるけど、武田は仲間にはいっていましたかな」と言ってね。料理が一人前足りなくなっちゃったときがあるんだ。どうもおかしいんだけども、招待状が来たから、ぼくは返事を出しておいたんだ。しかし届いてなかったのかもしれないね。ぼくはすました顔をして出かけて行ったんだ。そこで三島さんと福田さんがなんだか耳打ちをして、福田さんが料理を食べない役になっちゃったわけだよ。中村光夫はかまわず食べちゃう方だけど、福田さんはよく気のつく人でね。鉢の木会のメンバーは一五〇〇円だかいくらだったかわすれたけど、会費を出してるんだ。ところがぼくはゲストだから会費は出さない。なにしろ招待状をもらって、たしかに返事を書いたとおもっているから。
三島さんについて思い出すのは、お母さんがよくやったなあ、ということだね。文壇に出たてのころ、『仮面の告白』をぼくはベタほめにほめたわけですよ。そしたらそれをお母さんが読んでね。「よろしくお願いします」と言ってたね。そのころまだ神西清さんが生きてたころでね。お母さんが来ると、酔っぱらった親愛の情をしめして、握手したり、肩をなでたりするんだ。三島さんのお母さんは意外と無邪気そうに見えたな。その点、まあ、先輩には息子のために尽くさなければならないとおもっておられたんでしょうね。ともかく料理は全部、お母さんが作ったからね。奥さんがいらっしゃるまでは。
そうそう、鉢の木会では、最後にかならず俳句をつくるんです。連句をやるんですね。二度、そんなことがあったんです。三島さんはいろいろ変わった言葉を考えている。「夏安居」という言葉、武田さん、知ってますか、とかなんとか三島さんは言ってね。仏教の専門家ならばもちろん知ってるわけですね。三島さんには、そんなふうに人を試しておもしろがるというところがあった。福田恆存さんも、中村光夫さん、吉田健一さんも、まじめに作ったんですよ。大岡昇平さんもね。みんな国文出身じゃないから本格的ではありませんけど、その連句にはやはりそれぞれの性格が表われていて、おもしろかった。その記録は「何月何日、鉢の木会」として三島さんの家にとっておいてあるはずです。
鉢の木会で和気藹藹とあつまってるころは、死ぬなんてことはまったく考えていなかったんじゃないでしょうか。よく文学全集なんかに載せられている三島邸での写真をとったころは、死ぬつもりもなく文壇で伸びていくということを考えていたとおもうな。伸びきっちゃってから、やることがなくなっちゃったから、死ぬことを考えた。普通の人は、死ぬまで少しずつでも伸びるとおもってね、だらだらやってるけれど、あの人は贅沢ですよ。そんなに早くやりとげてね。贅沢だとおもうな。

 

外国人とつきあうのが好きだったね。まあそれは商売の方だけど、年中こころがけていたからね。だからその点では、ノーベル賞に近いところにいたわけなんだ。あのとき、三島さんにノーベル賞をやってもよかったんだ。川端さんじゃなくてね。それでも死んじゃっただろうけどもね。あまり早過ぎるとかなんとか言われてね、そんなに早くノーベル賞をもらっちゃ、あとどうしますかなんて言われたけど、本当はあのとき、やってもよかったんだ。そうしたらあとニ、三年は生きてたかもしれないとおもうな。あれだけの才能はなかなか出ないですよ。実際には三島さんは「自分が死ぬ前に、ノーベル賞がまわってきても、受けとれない」と言ってましたが、それは川端さんがもらったからそう言ったんで、ほんとうは自分が日本で最初にもらいたかったんじゃないかな。もらえるという自信はあったし、外国をよく歩いて準備万端ととのえていたわけですよね。ノーベル賞の関係者は川端さんの方が無難だとおもったんでしょうね。
川端さんと三島さんを比べてみて、どちらがもらってもおかしくなかったとぼくはおもう。あのときもらっちゃえば、三島さんの死に方は、少しは違ったんじゃないかな。『酒』という雑誌の文壇酒徒番付で「残念賞三島由紀夫」というのが出たね。やっぱりああいうことを書かれたら、こたえるとおもうな。彼は、酒、そんなに強くないんだからね。言うに言われないイヤな気持がしたにちがいないね。
三島さんは、ぼくのようなものとのつきあいのなかでも、まったく手落ちはなかった。サービスもいいしね。あんな人はいないなあ、日本の文学者のなかで…。その点では、関係した人はみんな満足していたでしょう。一人として誉めない人はいないね。じかに会った人は。会わない人はいけないんだ。文学作品だけで論じている人は、なんだかんだと最後まで悪口を言ってますね。実際に会って、その健気なサービスぶりをみたら、そりゃ、悪口は言えないですよ。だってほかにそんなことをやってくれる人はいないものね。しかし、死ぬ間際にもやっぱり心配してましたね。悪口を言われるだろうということを。あれだけ人にサービスしてても、どこからかかならず変なのが出てくる。万全の策をとってるのに、なぜ人を裏切るのか。なぜこうなるのか、というわけだね。でもそういうふうに決まってるものとおもってたらしいね。実際、その予言が正しかったわけです。稲垣足穂さんだけはどんなことがあっても大丈夫だと、ぼくに言ってたんですよ。だけど稲垣さん、悪口言っちゃったでしょう。みんな自分の悪口を言うだろうとおもってたんですよ。だから自分を守ってくれるものがだれか一人、いてくれなくちゃ困るとおもってたらしいんだな。
それから第三の新人が三島さんに非常に冷たかったでしょう。彼が生きてるあいだは言わなかった。それは意地悪で本当のことを言わなかったというんではなくて、言いたかったけど、言う暇がなかったんでしょうけどね。それは非常に冷たかった。ある意味では当たってるんだけども、吉行淳之介さんの『スーパースター』を読むと、三島さんの批判がよくわかるね。安岡章太郎さんだって批判的だったでしょう。それから遠藤周作さんだって、認めなかったような気がするなあ。まだ第一次戦後派の方が、大別しているだけによく読んで、批判していたような気がする。『批評』の同人が最後まで三島さんを守ったかたちになったね。
三島さんは批評家を軽蔑していたんじゃないかな。作家というのは、もともとそういう傾向があるからね。親身になって批評家の文章を読んでみないとわからないものね。都合のいいときだけ、自分をほめてくれたときだけで、おたがいにその人がどうであろうとかまったこっちゃないというところがあるね。作家同士はそうばかりとは言えない。読まなくても、良かれという点がありますね。だいたい、批評家のものは作家によって読まれていないでしょうね。批評家は批評家でやってるんでね。三島さんは『批評』の会にあって同世代、あるいはもっと若い批評家とつきあっていたわけだけど、親身になって考えていたというのは、いい方じゃないですか。われわれは批評家の方を全人的に理解できてないなあ。第一、批評家の個性っていうものを、較べあわせてうまく言いあらわすことはほとんどできないでしょう。だけど批評家は、われわれ作家の側の個性を一応比較してね、全体的にとらえている。怒ったり、喧嘩するときだけね、とび上ったりするけどね。

三島由紀夫はぼくにとって忘れられない人だな。その仕事は大きいし、話題が豊富だしね。第一次戦後派とは異質だったけど、みんなよく読んで批評していた。『富士』がすっきりと完成できたのも、こんな言い方をしてはおかしいが、三島さんが死んでくれたおかげなんだ。三島さんとぼくは妙におなじことをやってきたんだね。ぼくの作品が彼のなかの起爆剤となったことがあるかもしれない。偶然かもしれないがね。ニ・ニ六事件を『貴族の階段』であつかったら、三島さんも書くでしょう。ぼくはさきに『生まれかわり物語』を書いてるけど、三島さんは『豊饒の海』で輪廻転生をあつかうでしょう。坊さんのことは、彼は『金閣寺』で書くしね…だから三島さんは「武田にやられてたまるか」って、やり出してきたところもあったようにおもう。すこしは刺激になっているんでしょう。もちろんそれはいい作品を作ることでね。何糞というんじゃなくて、武田のやることぐらい、おれだって出来るという、一種のいたずらもあったな。三島さんはぼくの『才子佳人』について最初の批評を書いてくれた人だ。それからあとも折にふれて書いてくれてますね。いちばん三島さんが好きだったのは『異形の者』です。あのときはわざわざ手紙をくれて、批判してくれた。というのは、人物が三島さんのやりたいようなことをやってますね。つまり障子紙を破るとこね。それから『貴族の階段』を発表したとき、昂奮してましたね。
それで氷見子が御乱行をやるところにおよんで、安心したというわけですよ。武田はまた失敗したなっておもって。それまでは心配だったんだ。成功するんじゃないかとおもってね。そういう点は、実に率直にモノを言う人だった。いつでもずけずけ言う人だった。率直明快で、弁解は嫌いなんだ。
ぼくは中国の文化大革命のとき、中国を旅行していた。帰ってくると、三島さんは川端康成石川淳、安倍公房と四人で反対声明を出したあとだった。ぼくは向こうへ行っていて知らなかったんですが、三島さんは「ぼくは武田さんにだまされちゃった」と言うんだね。中国をぐるっと巡って歩いてきたと言ったらね、そっちの方に味方してるとおもったんでしょう、三島さんは。「そうじゃないんだ、あなたたちの四人の声明が正しいんだから」と言ったって、きかないんだ。「それならなぜ中国へ行ったんだ」っていうんだよ。「だまされた。これは今まで武田泰淳はもっとちがった意見をもっているとおもってたけど、本当はそうだった」と、怒りと軽蔑をあらわにしていた。そのときのぼくの気持としては、四人の声明はよくわかるし、正しいとおもっていたわけだからね、そのとおりを言ったんだが、まったく受けつけないんだな。そんなところは単純で、隠しておけない人だった。含みなんてものはないんですね。それは妥協だとおもってるんだから、そりゃたまったもんじゃないですよ。
だから晩年になったら、もう他人の悪口ばかりでしたね。二人っきりになると、だれかの悪口をかならず言っていました。ところが、彼の罵ってる人が、ぼくにはそんなにわるい人じゃないし、劣った人じゃないようにみえるんだな。ところが三島さんは、唾棄すべきもののように言うんだね。人をほめることはほとんどない。ぼくにとっては、またかっていうわけですね。率直かもしれないけど彼は断固として言うわけでしょう。いくら考えても、その人をぼくは三島さんが言うほどの人とはおもってないわけですよ。それはなにもお世辞で言うわけでもなく、弁護するわけでもないが、そんなに三島さんとちがってるかって言うんですね。三島さん、ちがってるとおもってるんだ。そんなにちがった人間がいるはずがないでしょう。それだったら小説が書けないわけだからね。まあ、小説が上手か下手かの別はあるとしてもね。そんなにひどい人がこの世の中に充満しているってことを、ぼくの立場としては言えないですね。三島さんもまた嘘を言ってるわけじゃないんだ。実際、許しがたいと思ってるんだね、当人は。だからほんとに困っちゃうね。
そういうことができたということは、彼がやっぱり天才ということなのかもしれないな。世界の文学史をみていると、文学者たちはたがいに相手を否定したがっていることが明らかだね。同時代の作家のあいだには、かならずそういうふうな気持がつきまとっているのかもしれない。
三島さんは人をみてびしっと見分けちゃった人だね。だまっていないからなあ。普通だったら、どういう状態になっても、だまって付きあうことがあるけど、あの人はピシャッとやっちゃうところがありましたね。本当の意味で親しめるという人じゃないからね。つねに相手の欠陥に気がつく人だからな。そんな具合だから、うまく長くつづけていくということが出来なかったでしょうね。それに、すぐ飽きちゃうということもあったでしょうな。

 

その死に方は世間の人たちにたいへんな大きい衝撃をあたえたが、それも三島さんのおもいつめるということの結果だったとおもえるんだ。三島さんは、いつも成績を甲の上、優の上でもってしめしていたことはたしかなんだ。革命家とか政治家などが、集中していったのとおなじ条件だろうけど、文学者がおもいつめて成績を優の上に保っておこうとすると、ああいう結果になるんだ。そんな気張ったものさえなければ、なんでもないんだけど。三島さんは力いっぱい最前線を歩いてきたという感じですね。普通の人だったら、ピークに登っていても、ある時期、下におりることだってあるわけだよね。停滞の時間があるんだね。三島さんにはそれがなかった。いつも張りつめていて、成績を優の上、すなわちトップにいなければ気がすまなかった。ここにひとつの悲劇があったといえる。
もちろん小説は苦心のあとがみえますよ。いろんな描写なんか、こまかくやっていて、七転八倒したあとがあるんだ。だけど最後の長篇には、たとえば床の間にかけてある絵をね、すぐ文章のなかに入れてしまったようなところがある。それがわざとらしくみえる。そんなものを説明する必然性がうすくなっている。その説明がどういうものであらねばならぬと、非常に苦心して、よく出してあるけど、なぜ描写しなければならないか、よくわからないですね。ことさらにやったという気がすることもあるんです。だから時間がかかるとおもうんだ。気持を流露してないですね。流露してないということもいいことなんだけれども、その場合、どういうふうにやったらよいかという方法が確立しないまま終わっちゃったという感じですね。あの人の作品はいつでも流露してますよ。『仮面の告白』でも『金閣寺』でもね。流れがきわめてスムーズだったんだな。だから非常にチクチクひびいたんですけどね。
これが小説家としての三島さんの大きな問題ですかね。まあ、これからが本物の小説家になれたかもしれないんだ。思いなじんでいるところがなかったんだ。なにもかもうまくいくはずがないんだが、そこで思いなじんで、考えなおして、また出直すところが三島さんにはなかった。だから小説家としては、ちょっと未完成な小説家とも言えるわけだよね。
生きているあいだは流露したままでもって爆発してしまったけど、小説というものは、そればかりでもいけないとおもうんだな。流露して美しさにひたりながらというだけでは、ちょっときびしい。それだったら今までの小説が、これだけ種類が豊富であるということはないんですがね。小説家というものが三島型であるということだけだとね、やっぱり世界文学全体としては、ちょっと部分的のような気がするな。
金閣寺』は作品全体としてみたら、構築が完全だったから、世評が高かったわけだけど、あれで仏教を書いたのだとしたら、ぼくとしたら、非常に不満なんだ。あれもやっぱり主人公がおもいつめ型ですよね。それで「金閣寺」がみえたというわけでしょうね。だけど実際はそうじゃなかったろうなということ、美的でなかったということが、あの主人公にたいして言えるとおもう。三島さんが美的に見せたことは偉いけれど、死を、醜いことは醜いこととして、また救われる面がちょっと書けてないような気がする。金閣寺は美しく燃えつきてしまっても、それで人間の問題は解決できないわけだからね。いろんな人間がこの世の中に生きているということは解決できやしない。そうでしょう。そこまでやってしまわなければ、生きてる甲斐がないのかどうかということですね。やっちゃった人間だけのことはよく書けてるとおもう。やらない人間は、生きている価値がないのかと言いたくなるんですね。正常に生きていく義務がないかというと、そんなことはないでしょうね。そのところが、ぼくには不満なんだな。つまり詩というものが書かれてないとおもうな。やっばりある種のエリートが書かれているわけだね。それを意識しないで日曜日に遊んでいるような人間を、ほんとうは三島さん、書きたかったろうけれども、内心ではきらいだったんですからね。現代の若い人のだらしなさやなんかは、よく取り上げているけど、心のなかでは馬鹿にしているところがある。だから結局は書くということになるわけでしょうね。
若者にたいする嫌悪の念というのは、ほんとうにすごいからね。バカバカしい奴らだと言ってたでしょ。だからそれだけ狭くなるね、どうしても。自分の気に入ったものだけ取り上げるということでね。『月』という作品だって、若者のなかへ入れないというか、反発を感じちゃうということですね。三島さんには若者たちにたいする一種の恐怖心みたいなものがあって、やっぱりきらいだったとおもう。彼らをバカにしてるっていうか、なじめなかったんでしょうね。
三島さんの優等生だけが代表者であるという考え方、それはそれほどわるい意味じゃないですよ。だけど学生である以上は優等生でなければならない、若者である以上は死ななけりゃならないという考え方は、ぼくらには困るっていえば困るものなんですよ。
だからあの人は年中、セックスは死をしめし、死はセックスにつながると言って言っていたね。セックスと死、これは三島さんの定理でもあったわけだけど、人間にとってほんとうのところはセックスは生であって、そこがつながらなければならないんだね。
セックスを死にむすびつけたがる気持が、なぜ三島さんのなかで強烈に出てきたかということが、問題でしょうね。

(付記)武田泰淳さんは『目まいのする散歩』のなかで「『中央公論』の新人賞の選者にえらばれたのは、伊藤整三島由紀夫、それに私の三人だった。その二人は死んでしまったが、一人はガンを患っての病死だし、一人は割腹自殺だった。一人はひっそりと冷静に(と外部には想像されたが)死を迎え、一人はその自殺した日がいつまでも忘れられないほど、よく晴れた十一月に、一世を驚愕させて、はなばなしく死んでいった」と書いている。脳血栓をわずらって療養につとめておられたころの友人回想の一節だが、ながいあいだ、したしく文学的な交友をつづけてきたニ氏の死には、感慨ふかいものがあったのであろう。病中の武田さんは、自分の死に方についてもおもいをめぐらしていた。三島氏のような真似はできないが、「意志や能力なしに、演出や演技に近づけるものなら、これに越したことはなかった」と言っている。
同時代の作家としての三島由紀夫について、武田さんはつねに関心をもちつづけた人であった。昭和二十一年、三島氏の『煙草』と武田さんの『才子佳人』は、踵を接するようにして『人間』に発表されたわけだが、それ以後、たがいに質を異にしながらも、旺盛な作品制作と批評活動をくりひろげてきた。それもたがいに、なんらかのかたちでかかわりあいながら仕事をつづけてきたといえる。
三島さんはぼくにとって忘れられない人だ、と武田さんは口ぐせのように語っていた。書きおろし長編『仮面の告白』の原稿を編集者に手わたす状景を、喫茶店の片隅で目撃したこと、座談会や文学者仲間の会合におけるその一挙一動、そして率直なものの言い方をする三島氏の性格と行動などを、おりにふれてよく話しておられたのである。
昭和四十五年の秋、武田さんは長篇『富士』の終末にむかって、「無我夢中状態」のなかで仕事をしておられた。三島事件のおこったとき、その十五章「事件の成立、その前夜」(十二月七日発表の新年号掲載)は、すでに書きあげられていた。したがって甘野院長宅の惨劇につづく、「宮様」病患者一条実見の直訴事件、憲兵隊における服毒死は、三島事件にヒントを得てのことではなく三島事件とは明らかにべつに構想されたものであった。事件当日、すでにゲラになったこの十五章を出張校正室で読み合わせていた編集部は、あまりにも暗示にとんだ類似性におどろかされたのである。武田さんはこの長篇を戦争という狂気の時代のなかですすめながら、昭和四十年代の現象を喜劇化し、人類のさまざまな問題をぶちこんだといえる。『富士』がまとまったのは三島さんが死んでくれたおかげだと、武田さんは語っているが、事実、第十六章以後はすっきりと大団円へむかうことができた。事件直後に書かれた「一条さんがやってくるわよ」のなかに、語り手が一条の手紙を読むくだりがあるが、「強がりだ。なんの役にも立たぬ強がりにすぎないんだ。どうしてそんなに自分ひとりが、すべてを決定できる。選ばれた人間の顔つきをするんだ。…そういう反撥は、すぐさま消えて、私は彼のきらった涙を流さずにはいられなかった」とあるのは、三島氏にたいする率直な批判とふかい哀惜の念がこめられているようにおもえてならない。一条の死をきっかけに、物語は一挙に武田さん好みの「滅亡」のドラマのなかにおいこまれてゆく。
『目まいのする散歩』の成立については、すこしく先号の追悼文でふれたが、はじめに口述によって、武田さんの随想文学、あるいは戦後文学回想記が生まれるという可能性があった。そのため私はテーブレコーダーをもって、武田山荘に出かけた。ここにまとめたのは、昭和四十九年七月上旬の記録であって、主として三島由紀夫氏を語られたときのものである。いわば「散歩シリーズ」という連作が口述されるきっかけとなったものである。
(記録・近藤信行)

「海」77年1月号

武田泰淳の口癖は「諸行無常」だけれど、そう唱え続けたからといって、この世の何もかもを受け入れ飲み込んだり、こだわらず受け流したり出来るほど強くはなれないのも、また人間の真実だろう(だから彼も小説を書き続け、葛藤や溜め息を刻み続けたのだと思う)。資質や程度の差はあっても、三島由紀夫のように、どこかで筋のようなものにこだわりよすがにしなければ、ただ無意味やでたらめに無限に耐えられるほど人は強くはない。
ただ見ているだけでは生きていけないし、他者と凌ぎあうためにどうしても自分を固めなければならない。
けれど、三島のようにピュアになりすぎることは(それがひとつの美点であったとしても)、泰淳の指摘する通り、人を狭いところに追い込んでしまう。
そして、そういう三島を気にして、好意を寄せている泰淳の優しさ、大きさに、自分は救われる気がする。
ピュアな優等生でもなく、優しくも大きくもない自分だが、この二つの方向を、少しでも振幅広く揺れることを心掛けながら、自分を支え、微力でもあがいてみたいと思った。