サム・ペキンパー2題

bakuhatugoro2008-05-22



臆病だからか、旧い人間だからか、どうも自分は、「自立した個人が、因習や既成概念に縛られず、また自分の個人的な背景や感情を越えて、フラットに社会に向き合う」といったことを、絶対の正論のように軽々と口にして照れることのないタイプの人を、信用できない。
そういったことは、努力目標ではあるけれど、現実的には絶望的に難しいという実感を、どうにも手放すことが出来ないし、本気でそれが達成できるなどと思っている人は、余程お人好しか、さもなければ傲慢かどちらかだと思う。
政治や環境管理で、人間の業を押さえ込めると思ったり、そのように啓蒙したりしている人たちは、それを指導する人間にとっての好みや都合が入り込むことがない政治が存在すると思っているお目出度い楽観主義者か、そうでなければ自分の都合をそれと明示せずにごり押ししようとしている悪い奴だと思う。
信用できないからと言って、人間やその社会が、いつの世もそうしたものだということをどうすることもできないし、ただそれをあげつらうことにだけ人生を浪費することは不毛だと思うけれど、そうした楽観主義に右へ倣えしたり、信じすぎたりする怠惰や傲慢に溺れこまない理性を持つことこそが、「自立した個人」であろうとするならば最も重要な所だと思う。


最近、同居人が大学でアメリカ文学史におけるインディアンの扱われ方の変遷について勉強しているのを横目に覗いていたのだが、フォークナーとかヘミングウェイといった人たちが、根本にアメリカ人らしいヒューマニズムへの信仰を持ち、一方で差別への怒りを持ちながらも、隣人として暮らしていく上での生理的な違和感や反発を即物的に書いているのに対し、ポール・オースターあたりになると、自分のひ弱な自意識から出た「非暴力」とか「調和」の願望をインディアンに投影しているような観念性が露骨になってくる。
これって、以前笠原和夫の仕事や、日本の戦争映画の変遷について調べていて感じた違和感と、そのまま符合する。作り手にも受け手にも戦争体験の記憶が生々しかったころの方が、戦時中の自分たちの意識とか、敗戦国の悔しさといったものを描くのにタブーが少なかったのに、80年代頃、戦争体験やリアルな貧困が過去になって以降急速に、「反戦」「平和」といったイメージや観念が先にありきの窮屈なものばかりになっていく。
これは何も左派に限ったことじゃなくて、最近のいわゆる保守化、右傾化したと言われる若者、いや、上のようなニュートラルな正論らしきものを吐く「頭が良い」とされる人たちにも、そうしたペラさをほぼ直感的に感じてしまう。
もっと言えば、最近の映画も文学もマンガも、多少よくできていても、どうにも体感的に信が置けないのは、自分の場合こういうことに尽きる気がする。


というふうな日頃の実感を念頭に、最近「若者の自意識につける薬」というお題を貰って、某誌にペキンパー作品の紹介原稿を書いたのだが、ボツになってしまった。
自分としては、上のオースター作品のような傾向は、例えば昨今のいわゆる「セカイ系」と言われるような作品にも、そのまま連なるものだと思うし、また同時に優等生的な「ニュートラルな正論」を手軽に選ぶことが、そうした「自意識」を超えることではまったくないと考えるので、敢えて内なる暴力性、マチズモ性を見つめ、引き受けきったペキンパー作品を取り上げたのだが、先方の頭の中にあるタブーだか対立図式だかに激しく触れてしまったらしく、書き手としての自分の未熟もあって、うまくその辺を伝えることができず残念だった。
というわけで、以下二題ここにお蔵出しします。
映画ファンは勿論、最近の僕のラノベ誌などでの仕事を読んでここに来てくれた、若い人たちに読んで貰えると幸い。

わらの犬サム・ペキンパー

ここ数年、「当たり前の日常の豊かさの再発見」をテーマにした作品が、ジャンルを問わず数多く作られ、支持と評価を集めている。世の趨勢に対して嗅覚の鋭い人ほど、今、敢えてこのテーマを選んでいるようにも見える。
衣食足りて、みんな自分の生き方や、他者からの理解への望みが高くなると、どうしても自意識が膨らんでギスギスしてくる。だから「足る」を知る心を持って、他者を慮り、優しく生きていこう。
しごくまっとうで、大切なメッセージだと思う。
ただ、僕は自分がワガママ者だからか、これに一抹の窮屈さを感じてもいる。
こうした作品で描かれる人間関係の多くが、あまりにもたわいなく罪がない。あるいは繊細で行き届き過ぎている。つまり逆に言えば、互いの都合が通じない本質的な他者同士の衝突が描かれていない、更に言えば、注意深く切り捨てている気配を感じる。
天真爛漫な悪意のなさや、優しく繊細な人間関係に憧れるのはいい。ただ、憧れはあくまでも憧れだ。それを無理矢理に現実として描き、思い込もうとすると、現実の自分たちの厄介さを見なくなり、はみ出すものを必要以上に否定するという倒錯も起きてくる。
生きることの根っこには、どうしようもなく「闘争」が存在する。直接的な暴力によらなくても、僕達は日々踏みにじったり踏みにじられたり、我慢したりさせたりしながら生きている。それが、あまり露骨になり過ぎないよう手段を洗練させてはいても。平和や公正中立を喧伝する者も、一方に自分の好都合を隠し持っている。
人間、どうしても希望的観測や身贔屓で目が閉じてしまいがちだけど、ここを忘れると、闘争において守られるべき筋まで見えなくなってしまう。
そこで、自戒も込めてお薦めしたいのが、サム・ペキンパー監督の『わらの犬』という映画。
ダスティン・ホフマン演じる主人公の数学者は、暴力の氾濫するアメリカの都市生活を嫌って、妻の故郷であるイギリスの片田舎に引っ越してくる。
不器用で子供っぽい彼と、無邪気で気分屋な妻は、ままごとでじゃれ合うように、ちょっと浮世離れした日々を送っている。が、いつしか妻は田舎暮らしに退屈し、夫の頼りなさに少し物足りなさを感じ始めてもいる。
また、村の男達は、田舎暮らしの鬱屈のはけ口にするように、彼らに隠微な嫌がらせを始める。
愛猫を殺され、遂には留守中に妻をレイプされても(しかし妻は、昔の男だった相手を、途中からは自ら受け入れ甘える)、気弱な平和主義者の彼は、薄々それに気付きながら事を荒立てようとしない。ところが、男たちの中の一人の娘が精神薄弱の青年にいたずらされ(実は、娘の方が欲望のはけ口に彼を誘ったのだけど、現場が見つかりそうになって怯えた彼は、誤って娘を殺してしまう)、主人公が彼を庇ったことをきっかけに、村人達は暴徒となって夫婦を襲う。
青年を村人達に引き渡そうとする妻を主人公は殴りつけ、遂に村人達と血で血を洗う戦いを繰り広げる。
主人公夫妻を含め、登場人物たちは不運なめぐり合わせの中、弱者への悪意や嫉妬、一見きれいごとに包まれた臆病、日和見、無神経といった、人間の負の側面が強調されるのだが、それぞれの持つ事情自体は誰しもどこかで心当たりがあり、観ていて安全な距離が取れない。そして、ひ弱な主人公を卑怯者と軽蔑しながら、最後に彼が痛みと共に引き受けたものも直視できないでいるのが、現在の僕達の現実じゃないかと気付かされる。

ガルシアの首サム・ペキンパー


青春の自意識の問題の多くは、青年が「オッサン」へと変貌する時、半ば否応なく解消する。ハゲで腹の突き出た体臭のキツいオッサンになることは、大方の若者にとって恐怖だろうが、余計な見得を張る余地を失うことは半面自由を得ることでもある(だから青春が死ぬ程キツい時は、先手を打って自分でハゲデブになってみるのもテですよ)。
しかし、「自分をどう見たいか」という意地や拘りを全く失ってしまうのも男としてどうかと思うし、そう簡単に割り切れるほど人間強靭ではないのもまた一面の事実。
そこで、別項で取り上げた『わらの犬』のペキンパー作品からもう一本、不合理な意地や拘りによって地獄への一本道を突っ走るオッサンを描いた『ガルシアの首』を紹介したい。
ペキンパーは「西部劇最後の監督」と呼ばれる人で、彼自身開拓者の子孫としてその魂や生活信条を色濃く受け継いでいる。
西部劇は、過酷な環境や外敵から女子供を守って雄雄しく戦い、力で秩序を築く男達を描いてきた。しかし、フロンティア開拓の時代が終わり、社会が整備されていくと、先住民の征服と暴力的闘争の上に成り立ってきた歴史に批判の目が向けられはじめ、西部劇というジャンルも黄昏を迎える。
そんな中ペキンパーは、過去の西部劇では描かれなかった、粗暴でエゴイスティックな荒くれ者という男たちの実態と、そこで糧を得ていく厳しさ、そして、だからこそ生まれる男同士の共感が滲む映画を撮った。彼の映画は、現実を生々しく批判的に切り取る「アメリカンニューシネマ」的なものの嚆矢とされ高く評価される一方、暴力やマッチョイズムをロマンティックに肯定し、女を保身と快楽に生きる動物のように描く「反動」であるとして、激しい批難にさらされた。
ガルシアの首』の主人公ベニーは、もはや「西部の偉大な父」でも何でもない、メキシコのしがないBARのピアノ弾き。ある日自分の愛人である娼婦の浮気相手の首に、莫大な懸賞金が懸けられていることを知る。ところが当の男はすでに死んでおり、ベニーは嫌がる女に無理矢理道案内させて、金欲しさに墓暴きへと向かう。ところが途中で首は横取りされ、女は殺されてしまう。
ベニーは半狂乱になりながら首を取り返そうと戦い、最早金などどうでも良くなり、ことの原因を作った(と彼は思い込んでいる)有力者を殺し、自分も蜂の巣にされる。
勝手に悪い夢を見た揚げ句の不始末でヤケになり、意地だけでデッドエンドへと突き進む彼は、安易なナルシズムに溺れる負け犬とも見えかねない、というか事実そうなのだが、作家としてのペキンパーの凄さは、「男らしさ」というものが「終わりつつある虚構」であることを深く見つめながら、その上で尚虚構に殉じきっていく凄みにある。
彼の男女観の複雑さの表れとして象徴的なのが、ベニーと女がヒッピーのバイカー達に襲われるエピソード。彼らの一人にレイプされそうになった女は相手に平手打ちを浴びせ、毅然とした目で睨み返す。そして、気勢を殺がれた相手をなだめるように、自ら男に身を委ね、受け入れようとする。が、その光景を目の当たりにしてしまったベニーは逆上し、無駄にヒッピーを撃ち殺してしまう。女のためというよりも立つ瀬のない自分のために。彼の行為は更に女を傷つける。
その後、女を失った彼は、同じ女を愛した男の首に勝手に友情を感じ、またも「女のため」という自身の物語に殉じて、命懸けで復讐(というより八つ当たり)をやり遂げる。
「それ以外に何がある!」と言わんばかりの、くたびれたハゲオヤジの妄執は、良くも悪くも究極の「男らしさ」そのもので、胸が締め付けられる。