差別の見える人生の豊穣さについて

「陽が照りわたる表を歩いてきて、青木さんのところの板戸を押して入ると真暗で、眼の中から緑や赤の燐光の粉が湧いた。足元から土間が長細く奥まで通っていて、土間の両側に敷居を高くして障子をはめた(六畳ぐらいの)部屋が五つずつ並んでいた。眼が慣れてきても、それ以上明るくならない暗がりの土間は、履物のあとが凸凹と一面についたまま踏みかたまっている。高足駄や杖、わら草履、ゴム靴、下駄などが、間隔をおいて(部屋の入り口に)据え直してあったり、転がったりしていた。ねずみとりの針金カゴや七輪も転がっている。せかせか女の人がやってきて障子を乱暴に開け、歩いてきた格好に下駄をあと先へ脱ぎ放して、つんのめるようにハイズリ上がり、ぴしゃりと閉める。
便所の匂いと泥の匂いと足の匂いと食物の煮炊きの匂いなどが混り合って、いろいろなものが腐っていく途中の匂いになって、湿っぽく淀んでいる。(…)青木さんのおかあさんは、体の大きな人で、黄ばんだ平たい顔と縮れ毛の髪が、青木さんに似ていた。部屋のまん中で、もろ肌ぬぎの立膝となり、タバコをふかしていたことがあった。(…)
シベリアを食べるのを急にやめ、夜学生は光る奥眼で私の方を見た。「昨日、軍艦山で怖いもんを見たぞ……ありゃあ、怖いもんだ。見たいか。見たらおしまいだぞ。気持わるいぞ」まじめな顔でうわごとのように言うと、仰向けに寝ころび、何も言わなくなってしまった。
おでん屋の店の中から錠をおろして、洗濯屋の若い衆と青木さんのおかあさんが、丸裸で取っ組み合ったまんま昼寝していたそうだ。その二人が軍艦山でも取っ組合って昼寝していたそうだ、と学校に噂がひろがったとき、青木さんは何とはなしに元気がなくなったように見えたけれど、運動会ではリレー選手となって紫色のたすきをかけ、先頭をきって走った」
武田百合子「怖いこと」

子供の頃、勝新の『座頭市』が怖かった。目の見えない市の風貌にも、作品全体のざらざらしたテイストにも、なんというか、被差別の匂いのようなものを感じていた。
当時の田舎では、ちょっと知恵遅れ気味のおじさんが、どこかに隔離されたりすることなく、当たり前に近所を徘徊していたり、時には玄関先に入って来たりすることもあって、大人は当たり前に接していた(あしらっていた)けれど、意味の取れない片言で突然話しかけられたりすると、子供には怖かった。
貧富の違いもまだはっきり残っていて、うちは裕福では無かったけれど、両親がちゃんと揃った勤め人の家庭で、貧乏な労務者風のおじさんの風体や生活ぶりなど、子供の僕にはまったく未知の異質なものに見えて、はっきり自分から切れている怖い存在に思えた。
座頭市』に限らず、僕の子供時代テレビで沢山放送されていたアウトロー時代劇は、水戸黄門などのいわゆるお茶の間向け時代劇と違って、貧富や差別の匂いに焦点を当て、理屈やメッセージでなく体感するものとして生々しく表現していた。子供にはまだ背景や理由が見えないから、日常ですれ違うおじさんと同様、子供には捉えがたい異物で、とにかく怖かった。
そして後から思うと、日常でも表現の中でも、そうした存在が隔離されて見えなくなる前に、直接見たり触れたりする経験ができたことを、とてもよかったと思う。怖さとか嫌悪感とか同情とか罪悪感が混じり合った整理できないリアルな印象を、体験として蓄えることが出来ていたなと。
傲慢な言い方になるかもしれないけど、同じ教室で孤児院の子たちや、被差別部落の子たちとふれあったり、すれちがったりした経験も、その時は苦しい思いをしても、結局自分にとっては人生の宝だなと。
上京して、裕福で知的、文化的な人たちに触れて、憧れたり反発したり恩義や断絶を感じる機会を持てたことと同様に。