俺にはわからねえ(それでも私は)

心弱い人や、生真面目で物事の許容量の幅の狭い人は、その狭さの純度をそのまま生きるよすがにしていることが往々にある。理屈では分かるのだけど、現に別の実感、体感を持つ他者が目の前にいるのに、何故、頑として思い込みを譲ろうとしないでいられるのか、相手の声や事情を無視して一方的に裁くようなことが出来るのか、本当のところ自分にはわからない。 

「若いときの理想主義、いやこのばあいはむしろ世の中を甘く見た空想というべきでしょうか、ひとたびそれが破れると、今度は社会を呪うようになる。それがひがみでないと誰がいえましょうか。一見、正義の名による社会批判のようにみえても、それは自分を甘やかしてくれぬ社会への、復讐心にすぎないのです。なにより困ることは、それによって傷つくのは、社会のほうではなく、自分自身だということです。
そういうと、自分で努力して得た成績より生まれたときからもっている美貌のほうを高く買う社会がまちがってはいないか、そんな世のなかでは、努力をする張りあいがなくらりはしないか、そう反問するかたがいるかもしれません。だから、私は、生れながらにして、どうにもならぬことがあるといっているのです。いくら努力しても徒労に終わるひともあり、難なく出世する人もあるといっているのです。そういう社会を徐々によくすることも必要ですが、いくらよくなっても程度問題で、不公平のない社会はこないし、また、それがこようと、こまいと、そういうことにこだわらぬ心を養うことこそ、人間の生き方であり、幸福のつかみかたであるといえないでしょうか」
福田恆存『幸福へ手帖』(『私の幸福論』)