お題目の息苦しさ

最近、竹内洋氏の連載「革新幻想の戦後史」が、福田恆存の『解ってたまるか!』や『平和論に対する疑問』が書かれた時期の事情に触れていることもあって、廃刊(じゃなくて表向き休刊か… 敗戦を終戦と言い換えるのとよく似てる)が決まった『諸君!』を、今更のように手に取るようになったのだが、今月号に載っていた、長谷川三千子さんの「水村美苗「日本語衰亡論」への疑問」が素晴らしかった。自分の生まれ持った宿命を過信も卑下もせずまっすぐに受け止め、その上で「批判と挑戦と反省的自己認識」を積み重ねていく、真に保守的な人の強さと爽やかさを強く印象付けられる文章だった。『日本語が亡びるとき』に引っかかかりのあった方や、ナショナリズムエリーティズム、或いは批判者の知性が足りないといった、表層的な毀誉褒貶の応酬にうんざりしていた方にこそ、ご一読をお薦めしたいと思います。

竹内氏の連載に引用されていた、鷲田清一氏による以下の言葉も印象に残った。

今の時代はイデオロギー(表向き誰も反対できない思想)だらけなんです。コミュニティ、多様性、公共性、コンプライアンス……。これを言われたら、「ははあ、参りました」とならざるを得ない言葉が多すぎます。誰も、「多様性なんてヤバいぞ」とか、「コミュニティなんか要らないよ」とは言えない。しかも、そういう誰も反対できないお題目だけが、ニュースショーで、五分か十分おきにイメージ的に紹介されて、コメンテーターと司会者の人が、「これが正義です」と一言、言う(笑) 要するに、ものを考えるなということです。

僕はもともと、住人がすべて顔見知りで、お互いの今日の献立てまで筒抜け、仕事の種類は少なく、人に対する評価基準にバリエーションが無い、田舎の共同体が息苦しくて、風通しのいい人間関係を求めて逃げてきた人間だ。だから、ずっとお互いを尊重して対等に、フェアに付き合うような場や人間関係を求め、模索してきたつもりだ。けれど、誰だってまずは自分がうまくやること、自分を有利にする繋がりを第一に考えるものだし、自分に連なる身内を守ろうとするものだから、理念としてそういうものを求めても、結局はうまく行かないというのが、偽らざる実感だ。勿論、僕自身の性質の問題や、力の無さも大きいと思うが、決してそれだけではないとも思う。というか、こんな到らない人間をも、隅っこにでも包括できるような社会でなければ、それはいい社会とは言えないんじゃないかとも、「世の中はお前の都合で回ってるわけじゃない」という一方の正論に逆らって言い張ってみたい。
実際、まわりの人間を見回しても、大向こうに「コミュニケーション」だとか「共同性」だとか、声高に言っている人に限って、実際フェアな態度と優しい配慮で周囲の人間に接しているようにはとても見えない場合が多い。これは自戒も込めてだけれど、文章表現というのはどうしても受けてとの間に距離があるから、願望や希望的観測が入りがちだし、それがすぐに相手によって吟味されずに済んでしまうところがある。だからこそ、自由に思考や想いを記せるということもあるが、自分に出来ていないこと、あるいは実際にやっていることを誤魔化して、それを正論らしいものにまとめることが、比較的容易に出来てしまう。ただ、人間の問題というのは、自分で自分を制御できない、無自覚の、あるいは隠し持った欲望や、弱さ、だらしなさ、狭量といったものから生じるものだから、そうして固めたフィクションや議論の応酬と言ったものと、僕らが実際に切実に抱えている現実というのは、どんどん距離ができていく(更に言えば、そうした非現実的な言葉は、読み手にとって現実を目隠しする上げ底の自己像として消費され、時に手近なスケープゴートを叩くことで仮初めの立場を求めたりもする)。
僕はこういうインチキや思い上がりにほとほと嫌気がさして、もう随分長い間、こうした論壇的な言葉には極力距離を置くようにしてきたが、一方で、自分が人間関係が孕む政治性にまるで無関係なような顔で、狭義の文学的な趣味に自閉するような態度にも抵抗を感じてきた(このあたりについても、伊藤整高見順といった、日本が戦争に突入していく昭和十年代に文学的自我を形成した作家による、個人的に作品を書くことに留まらない仕事ぶりを紹介する荒川洋治の文章も興味深かった。
現在を疑い、よりよく生きることを模索するのは大切だし否定しないが、己を知るということは同じくらい難しく大切なことだ。自分がたまたま持った有利や幸運(あるいは不利や不運)をそれとして直視し、無視したり歪めたりせずに認めることは本当に難しい。人間にはほとんど不可能のこととさえ思う。
人間というのは、どうしても前進しようとするし、できると信じ込もうとする、オッチョコチョイな願望を持ってしまうものだとも思う。だから、論理や認識は、それは実際の人間関係や日常の中で常に誤差が生じる。それを誤魔化さず拾っていくことが、広義の文学の、大切な仕事の一つだと思う。


一見イデオロギーとは無縁なはずの、最近の若い論者を見ていると、殊更に世代論を嫌ったり、逆に異常に細かい世代の差異に拘っていたり、正直一読窮屈な印象を禁じえないのだが、どちらにしろ自分たちを本当の意味で相対化する他者や現実を嫌い、自分の都合を性急に普遍に結びつけるための抽象的な証拠がために汲々としているように見える。また、自由に「蛸壺」や「世間」を批判しているはずの彼らの様子は、小さな世間の形成のために人一倍汲々として見えることも皮肉だ。
例えば僕は、自分の子供時代に逆らいがたいものとしてあった、故郷や両親について、今も反発や疑問を強く持っているし、今自分がそうした環境や価値観に添わされそうになったとしても、全力で逃げようとすると思うが、同時に長く付き合い続けた結果、その現実の抜き差しなら無さというのも強く感じているし、大きく言えば、良くも悪くも宿命的に自分を形作ったものとして愛してもいる(そして、その上で尚、受け入れ難いことは、それが正しいか間違っているかってだけでなく、やはり厳然とある。また逆に言えば、それは錯綜した心情の上にある、一つの結果でしかない)。反発や愛憎、直には同席できない距離も含めての社会であり、共同性だと思っている。そうした、自分の意思を超えた有機的な繋がりを見ずして、社会だの個人だの共同性だの是非だけを言われても、それこそ子供のお題目にしか聞こえない。けれど、子供にとっては(特に言葉やリクツで世渡りするものにとっては)、薄っぺらであるほどわかりやすく、容易く他人と共有しやすいものであるようだ。


ともかく、久しぶりに『諸君!』なんて大文字の、大時代的な論壇誌で触れた、これらの年長者による文章からは、そうした窮屈さから自由な強さ、広さ、清々しさが感じられて、ちょっと新鮮だったし、それが彼らに届く回路が無いことを残念にも思った。

諸君 ! 2009年 05月号 [雑誌]

諸君 ! 2009年 05月号 [雑誌]