『銭ゲバ』と『ありふれた奇跡』(2)

http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20090314
からの続き。


僕はもともと、山田太一ドラマの積極的なファンではない。
どちらかというと、善意のインテリが、市井の人々やそれを取り巻く時代状況を分析しながら作ったような、ちょっと頭でっかちな印象をずっと感じてきた。
彼のドラマは、様々な世代や立場の人々の対立を、それぞれの立場に彼が成り代わって、言葉(セリフ)で親切に説明するような場面が多いけれど、特に、言葉を持たないタイプの人(年長世代であることが多い)が、饒舌に自分を語り、立場を表明し意見を主張しているシーンに、違和感と反発を感じた。彼らは自分の思いや感じ方を、容易く理屈で客観視したりせず、自分を分析的に許したり、主張したりしないからこそ彼らなんじゃないかと。
「ながら見」が基本のテレビドラマの制約というだけでなく、これは確かに、山田ドラマの本質的な特徴だったと思う。
自分はテレビドラマに限らず、正しいか間違っているかではなく、自分が本当はどう感じているのかという、抜き差しならない生理や体感に拘り、追求するようなタイプの表現が好きだから(それは、「自分」が揺らがないということではなくて、それが容易に定まらないような自我の不安定さや、立場の不明瞭さなども含めて)、乱暴に括って類型を代表させたり、判りやすく衝突させたり、それを調停したりしがちな彼のやり方に(「簡単に答えは出ない」という結論の場合も、多くは構図が反転したネガでしかないと感じた)、反発を感じることが多かった。
人間って、もっとそれぞれが未整理な部分を持ったまま、平気ですれ違いっぱなし生きてるもんじゃないのか。
それを諦め、許すことによって、共に生きている部分の方が大きいんじゃないか。
それがたまさか、明瞭になる瞬間や、理解や衝突が起こった時にドラマは生じるが、まとめること、理解することそのものが、ドラマの目的になってしまうのは違うんじゃないかと思った。しかも山田ドラマは、「わからないもの」を愚直にわかろうとした結果、極端な曲解にたどり着き、そこから導き出される感情には「確かにそういう面もあるけどそれだけじゃなくて、そこだけを強調することで違うものになってしまうし、そうした理解へ世を誘導されると困るなあ…」という、一面性への困惑を、しばしば感じた。


けれど、にもかかわらず、山田太一や彼のドラマを、僕は決して嫌いじゃない。
彼は嗅覚や直感で、体感的に物事を捕まえることは決して得意ではない、むしろ本質的には不器用なタイプの表現者だと僕は思っているのだが、その分時間をかけてディティールの断片や推論を積み重ね、しつこく人間をわかろうとしていく愚直な真面目さ、そして、そこで一度出た結論を常に疑い、立場が固まりすぎることを嫌う、慎重な内省を維持していく粘り強さと誠実さに、好感と敬意を持つ。はったりや断言を嫌い、自己確立を疑い、たやすく大きな立場に連なろうとしない自立ぶりとバランス感覚に、ある種リベラリストの理想的なあり方さえ見る。
一方で、個人の抜き差しなら無いアンバランスな有り様を愛し、信用もする自分は、そこに物足りなさを感じもするが、同時にこちらの限界や、領分を越えた独善に対するツッコミとして、彼を数少ない当てになる人、信用に足る人だと思っている。
逆に言えば、彼はどんな時代も、上で指摘したような「物言わぬ人たち」に向かってこそ、彼らを無視せず、むしろ常に気にしてドラマを作ってきた人だとも言える(そこには彼自身の、容易く変わらず、変わろうとしない年長世代への、懐かしさと反発が入り混じった気持ちも絡んでいただろう)。不器用なりにも手探りで、誤解や勘違いを繰り返しながら、それでもタカを括らず、あなどらず、しかし容易く屈服もしない。常に懐疑を手放すことなく、互いの距離を大切にしながらも、しっかりと自分を賭けた付き合い方だったと思う(若い頃から、当時「保守反動」のレッテルを貼られていた福田恆存を愛読し続けていたり、『男たちの旅路』や『シャツの店』での鶴田浩二への光の当て方などにも、それは顕著だ。そしてそれは、福田恆存の『私の幸福論』に記されているような、自分を卑下せず、しかし過信せずに受け入れる生き方を、まず実行できた人にこそ、可能だったことだと思う)。
そして、『ありふれた奇跡』は、その積み重ねが見事に結実した、広く深い視野に裏打ちされた、感情に流れず、流されず、結論を急いで誤魔化さない、優しいけれど甘やかさない距離感(節度とも言う)と、包容力を感じさせるドラマになっていたと、僕は思った。


あまりしっかり観ていたわけではないのだが、近年の山田太一の単発ドラマなどには、 年齢的にまとめの時期に入った彼の同世代や、乱暴や窮屈が無くなった代わりに元気や勢いも消えた世の中でバラバラに暮らす人たちを、優しく見つめているような、大雑把に言うと「ちょっと枯れちゃったな」という印象を持っていた。
ありふれた奇跡』も、バラバラに暮らしながら、人知れず個人的な傷や問題を抱えている人たちが、偶然に出会い、手探りでお互いに触れ合おうとする様子を、そのおずおずとたどたどしい感じまで丸ごと、丁寧に見せていくようなドラマで、一枚岩の社会が消えた人間関係の遠さから、却って山田太一独特のクセのあるセリフやちょっと突飛な設定が、意外と抵抗なく入ってきた。
ただ、その分なかなか展開らしい展開が無いのと、登場人物たちに対する距離が、やはり俯瞰的で優しすぎる気がして、正直前半はちょっと退屈しかけていたのだが、家族を事故で失い、喪失感の為に気力を失って、酒と女に逃げようする中年男の陣内が、仲間由紀恵に寄りかかろうとして「そんな人は珍しくない」「生きていくしかない」と、拒絶されるシーンあたりから、おっ!?っと思い始め、加瀬亮仲間由紀恵両者の家族が、それぞれの理由で二人の交際、結婚に反対し始めてから、俄然おもしろくなってきた。
本音を言うと、陣内を厳しく拒絶し、加瀬の好意を「軽い」と拒む仲間の理由が「子供を生めない体だから」というのが、僕にはどうにも軽すぎる気がしてまったく納得できなかったのだが、そう思っているのは山田太一も同じだったらしい。はじめに、優しいが気弱な性質のために営業職が勤まらず、鬱になり自殺未遂をした過去がある加瀬を、仲間の家族が拒否するが、やがて仲間の事情が発覚すると、今度は元戦災孤児で苦労人ゆえに、優しく孫達を見守っているように見えていた加瀬の祖父井川比佐志 が、「やっとのことで続いてきた自分の家族が途絶えるのは許せない」と、きっぱり仲間を拒否する。誰かの理由が、他の誰かの理由によって次々に突き放される。
若い男女の恋愛に、ここまで家族が介入するというのは、現在のリアリティで言えば不自然じゃないか、今は親が何と言おうと自分たちがその気なら結婚してしまうし、親も関渉に躊躇して諦めるというパターンが多いんじゃないかという違和感は、最初自分にもあった。ただ、山田太一はそうしたことも承知の上で、主人公たちの意識、ひいてはドラマの世界観と受け手の意識を、個人的に完結させたくないという意図を、はっきりと持っていたようだ。

一人の青年も一人の若い女の人も、一人で生まれて存在しているわけではない。家族はやっぱり描くに値するけど、この頃は、家族が若い二人の恋に関わるというようなことがなくなってきていますね。多くのラブストーリーは家族はいないも同然みたいになりがちで、それもリアリティーだと思うんだけど、僕はあえて家族が関わるというかたちにしたんです。いろんな世代のいろんな考え方が入ってくるかたちで両家族を書こうと思っていましたので。ラストで、家族のいろんな思いが、ある種の完結をみる。完結しないものも当然ありますが。
(月刊『ドラマ』3月号 山田太一インタビューより)

これは、はじめにも書いたように、山田太一がずっと続けてきた方法だが、どの立場にも肩入れしすぎず、しかし決してタカを括らず疎かにしない姿勢を数十年に渡って積み重ねることで、かなりの幅と精度を獲得し、このドラマに結実していたと思う。それは、フラットな現代っ子らしいミムラの、無意識に傲慢な善意との対称で、そこから「無いことにされた不幸」の側からの悪意を際立たせることには成功したが、やがて不幸が抽象的に内向するばかりで、却ってそれを突き詰めることが出来ずに終わった、世界観の狭さゆえの『銭ゲバ』後半の迷走と好対照だったと思う。
そして、そうしたドラマの中にあって、不幸の質と大きさがシャレになっていないだけに、1人寒々しい異物感で浮き上がって見えていた、陣内についてのケリの付け方こそ、本当に素晴らしいものだった(僕は、心の弱さゆえに、ずるずると破滅していくという役割を振られがちな、こういうキャラクターに何故か思い入れが強いので、個人的には彼の行く末に最も注目していた)。
彼は、自分の空虚を埋めるように、仲間と加瀬の関係に肩入れし、二人の親族を説得しようとするが、「大の大人がそんなことに肩入れするのは、他に目的があるはずだ」と足元を見られ、不審者扱いを受ける。これを山田太一は、「家族が身内を守るこうした意識や行動は、ごく当たり前のことだ」というニュアンスで描いていて、これも調度前の週に放送された『銭ゲバ』が、貧しくとも明るく幸福に見えていた定食屋一家が、家族のために銭ゲバになる様子を、主人公の最終的な絶望として描いていたことと、鮮烈な対称として僕には響いた。
そして、最終的な誇りを傷つけられた陣内は一念発起し、不動産の飛び込み営業のアルバイトで成果を上げることで、生きる場所と気力を取り戻す契機を得る。これはこれで、幸運なファンタジーかもしれないが、こうした厳しさに向き合い受け入れることからしか、人は本当には立ち上がれないという認識に裏打ちされて、緊張感と説得力を感じた。

僕は戦争を多少は体験してます、小学生としてしてですけども。戦後の日本がどん底だった時を体験してる。その頃に夢見たような生活って言うんでしょうか、食べ物があって薬があって、着るものがあって、でもそんなことは夢の夢だ、という時代を経験してるんです。薬がなくて、私の母も兄も死にましたけど、私自身も栄養失調になったりして、体中おできができたりして、それでも薬がないんで、なんとご祈祷に連れて行かれた。(中略)そして今の時代を考えると、すべて奇跡のように何でもある。食べるものもなんでもあって、うまいとかまずいとか言いたい放題のことを言ってる。だから、かつて夢見た世界を僕は今生きているという思いが時折湧くんですね。
その日本で年間三万人の人が自殺してしまう事実がある。」(同インタビューより)

これが、山田太一がこのドラマを書いた動機だという。
それは、特に、最終回の井川比佐志と加瀬亮のやりとりに結実している。
井川は、家族の血が途絶えることをあくまでも納得せず、また、彼の元で働く職人が、自分の家族と井川の同居を彼への善意で申し出ても、「人間はそんなに簡単なものじゃない。怖いものだ。そのつもりは無くても、やがて暮らしが定着すれば、家の中はお前等の家族の匂いで満ち、だんだん俺を疎ましく思うようになる。俺の家じゃなくなる」と、拒否する。このセリフは、かつて山田太一が希望として描こうとしてきた、孤独な人間が肩寄せ合う擬似家族への、リアルな否定でもある。
それに対して加瀬は、「臆病だ」と反論する。これは、山田太一が、かつての日本庶民に対して持ち続けていた懐疑の言葉でもある。
そして井川は「表には出さないが、俺はずっとこの常識で生きてきた」が、「でもそれは、どん底の時代の常識でね。どん底じゃない時代に、どん底の時代の用心で生きちゃいけないよね。今がどん底だという人もいるが、どん底はこんなもんじゃない」と応え、臆病だった加瀬が堂々と井川に向かってきたことを喜び、「あなたに会ったおかげだ」と、仲間を受け入れる。そして「心配の種を数えるな」と、二人を勇気付ける。


安定の中で幸福の基準値が上がり、「持っていて当たり前」「うまくいかせて当たり前」という前提で、未来から現在を逆算して、幸福の基準を数値で換算し、人並みかそれ以上を求めて自縄自縛になり、それが崩れてもなかなか執着を捨てられずに、孤独に不幸な意識を溜め込んでいるような現在の僕らを、二重の意味で相対化してくれる、素晴らしいセリフだと思う(また、こんなに立派に見える井川が、男を作って出奔してしまった加瀬の母にとっては、嫁を小間使い扱いする、耐え難くガサツなエロ爺いだったという複眼的な事実のあり方も、更に素晴らしかった)。
勿論、山田太一は、これで万事解決なんてことは、まったく思っていないだろう。結婚から時間が経てば、両家族は生活感覚のギャップから揉め始め、やがてその状態にも慣れて、関係を冷え込ませていくかもしれない。それ以前に、主人公の二人だって別れるかもしれない。
シングルマザーの後見人になった陣内も、やがて生々しい恋愛感情に溺れこむかもしれないし、彼女に男が出来て居場所を失ってしまうかもしれない(『ふぞろい』の新シリーズが、大抵前作の結論を御和算にしてしまっていたように)。
でも、それはそれで仕方がない。未来のことは誰にもわからない。だから、現在を大切にし、ここにある小さな喜びや希望によって、人は生きていく(山田太一は、現在のどんな保守思想家や文芸評論家よりも、ある意味正しく福田恆存の姿勢を受け継いでいるのではないか)。


こんなふうに「現在」に距離を取れる、経験の厚みと強さを持った世代が、これからどんどん消えていくと思うと、空恐ろしいような気持ちにもなるが(このセリフを、「現在」しか知らない僕らが口にすれば、やはり途端に嘘になってしまうだろう)、同時に、今のうちにこんなドラマに出会うことが出来たことを、本当に幸運に思う。


ただ、惜しむらくは、エンヤによるアンビエントなな主題曲や、ロングの多い落ち着いた画面にも顕著なように、引きになる俗っぽい刺激が薄いため、山田ドラマファン以外の「普通の若者たち」に、どのくらい届いていたのかが不安(古谷実のファンや、『銭ゲバ』に夢中になっていた人たちなどにも、是非観て貰いたい)。
願わくば本文が、新たな出会いの小さな一助になると嬉しいのだが。

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