伊丹万作『戦争責任者の問題』 福田恆存『私の幸福論』所収「自由について」(15日追記)


伊丹万作『戦争責任者の問題』
http://anond.hatelabo.jp/20110413222428

「だまされた」と平気でいうひとたちは戦争中はまだ子供で自分が確立されていなかつたから「だまされた」のであり、今日は、自分が確立できたから、その「だまされた」という事実に気づいたというのでしょう。そして「だまされた」自分は自由でなかつたが、それに気づいたいまの自分は自由に眼ざめているとでもいうのでしよう。そんなことはありません。そういうひとたちは、自分というものに、また自由というものに、この二つの新しい幻影にだまされはじめただけのことです。


こうして「だまされた」をくりかえしていたのでは、私たちは、生涯、永久に自分の宿命に到達できません。顧みて悔いのない生活はできません。さきにもいつたとおり、私たちの欲しているのは、いわゆる幸福で不自由のない生活ではなく、不幸でも、悲しくとも、とにかく顧みて悔いのない生涯ということでありましよう。あとで顧みて、いくらでも書きかえのきくような一生を送りたくないものです。


もちろん過去のあやまちを認め、これをただすのはいい。なるほど部分的には、そういうことも起こりましよう。しかし根本的には、私たちは私たち自身の過去を否定してはなりません。どんな失敗をしても、どんな悪事を働いてもいいから、それが自分の本質とかかわりがない偶然のもの、あるいは他から強いられてやつたもので、本来の自分の意志ではないというような顔をしないこと、自分の過去を自分の宿命として認めること、それが真の意味の自由を身につける第一歩です。自分の過去を否定し、それをまちがいだつたといつて憚らぬのは、結局、自分の出発点を失うことになり、未来の自分も葬り去ることになります。宿命を認めないことは、自由を棄てることになります。


自由と宿命の関係は大変難しいもので、私には、多くのひとが思いちがいをしているとしか考えられません。今日、自由平等を強調するひとたちは、やりようによつては、人間にはなんでもできると思いこんでいる。十九世紀の末、一度、行きづまりに陥った自然科学も、最近では原子力の利用によつてふたたび活気づき、それに社会科学の発達が結びついて、人々は人間の未来を前途洋洋たるもののようにおもいがちです。が、これは明かに錯覚です。自由には限界があるばかりでなく、その限界がなければ、私たちは自分が自由であると感じる喜びさえ、もちえないのです。この限界をとりはずしてしまうと、自由は自由ではなくなり、苦痛となります。無際限の自由は、じつは自由そのものによつて、邪魔者とさえなるのです。


私たちは出発点においても、終着点においても、宿命を必要とします。いいかえれば、はじめから宿命を負つて生れて来たのであり、最後には宿命の前に屈服するのだと覚悟して、はじめて、私たちはその限界内で、自由を享受し、のびのびと生きることができるのです。そうしないで、いたずらに自由を求めてばかりいると、落ちつきのない生活を送らねばならなくなります。みんな神経衰弱に陥つてしまいます。神経衰弱、あるいは現代の流行語でいえばノイローゼというのは、自分を操る術を失うことです。なんでも操れる自由をものにしようとしたため、自分自身が操れなくなるという奇妙な結果に陥るのです。
福田恆存『私の幸福論』所収「自由について」より

伊丹万作エッセイ集 (ちくま学芸文庫)

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私の幸福論 (ちくま文庫)

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