尾崎豊『放熱への証』ディスクレビュー(再録にあたり弱冠の修正)

彼の死後、「尾崎はずっと10代の偶像を求めるファンに縛られ続け、ラストライブとなった代々木オリンピックプールの公演も、そのため賛否が分かれてしまっていた」といった、一見同情的な言葉が、彼の音楽に深く興味を払ってこなかっただろう人々から盛んに喧伝されていた。そうした人々に僕は訊きたい。ではあなた自身は、あのライブの虚ろな彼を見て、いったいどう思ったのかと。
尾崎の死後、マザーとソニーの間の権利問題のためか、『誕生』以前の彼の映像は数年間テレビ報道や特別番組などでも全く流れず、「BIRTH」ツアーでのどこか自己完結した笑顔ばかりが繰り返し放送され続けたために、彼のイメージとその受容のされ方が不当に方向づけられてしまったことが、今(04年現在)も残念でならない。
10代の尾崎の活動をリアルタイムで体験し、その後彼と距離が生まれた後、それぞれ大人になる途上にあった僕たちは、確かにかつての彼の衝動の瑞々しさや、混乱や破綻さえ魅力と感じられていた若い全力疾走の印象と、まだうまく距離が測れていなかったかもしれない。けれど、まさか「あの」尾崎がこんなことになるなんて、という戸惑いを、彼の死よりずっと以前から感じていた。もともと繊細過ぎて危ういところのある男だったし、若さと資質が時を得た結果の反響の大きさが、その後の落差との処理を困難にし、バランスを著しく損ねたのかもしれない…などといろいろ因果は想像できる。が、現実に目の前にいる彼と、つい数年前の「あの頃」の落差の著しさにどうしようもなく戸惑い、ただただ途方にくれてしまっていたのだ。「一体、どうしてしまったんだ?」と。
だから、彼の訃報を伝えるニュースを聞いた時も、どう自分の中に定着させていいのかわからず、落とし処の無い感情を持て余していた。その行き場を探すように、そして、自分のこれまでを再確認するように、雨の護国寺に並んだ。
あの日、あの長い列に並んだ人達の多くは、死の当時の尾崎の観衆じゃない。現在の尾崎からは距離をとり、聴くことはなくなっていたけれど、10代の彼と思春期に共有したものを胸の奥に大切に抱えた、不器用だけど実直な大人の顔をした人達だった。ワイドショーを見てお祭気分で集まった群衆をたしなめる元ヤンっぽいお姉さんや、大袈裟に嘆いてみせる若者達をよそに、粛々と尾崎に別れの挨拶をする青年たちを見て、少し嬉しくなった。尾崎の目には、物言わぬ彼らの姿が映っていただろうか。そして彼らは、『放熱への証』をどう聴いたのだろう。いや、おそらく理解できないままに、それでも、ただ彼ら自身の中にある尾崎の面影を大切に信じ続けていくのだろう。
では、彼の死によって尾崎を知った多くの人々は、この霧のかかったように散漫な印象のアルバムを、一体どう聴いたのだろうか。ここでは『誕生』に顕著だった、あからさまなナルシズムや猜疑心を撒き散らす毒々しささえ、力を失って虚ろだ。具体的な他者や現場をなくし、ぶつかる現実に戸惑いながらも深く知ろうとする謙虚な情熱が生む手応えや、実感の重さが失われて、 性急な一人合点を繰り返すうちに、彼の思考や言葉はことごとく根や散文性を失って、著しく退化してしまっている。消費社会が充実していく中で、フィティッシュな感覚と生理を自信を持って深めていく新世代の動向にまったく逆行するように、ここでの尾崎の言葉は、現実から乖離して恐ろしく単純化、抽象化した「意味」と「物語」の残滓への執着だけを、呪文のように繰り返している。それは一体どこに届いたのだろうか?おそらく分厚い消費のもたらす「生理」や「感覚」、パーソナルな本音の自由によって報われることのない、差違化のゲームの中で寄る辺なく梯子を外され、「自己責任」により放置されている寄る辺ない者たちに、ではないか。
尾崎は「人間が意志的で善いものであること」を信じようとし、「人間の安易や傲慢や身勝手」を受け入れられず(受け入れ損ねて)バランスを崩してしまった。ありのままの自他を受け入れることに耐え、タフな諦念をベースにそれでも希望を模索する姿勢を身につける過程を踏み損ねた。その困難を、ただ斬って捨てられる程、僕は傲慢にはなれないし、同時に「受容と諦念」は前提であって、各々の人生の結論では無い。
結論のない人生、結論のない現実を受け入れながら、タフに出来ること、やるべきことを模索すること。これは、護国寺で見た人達のような形では大人になれない、中途半端さを引きずりながら生きていく僕たちが、尾崎から受け継いだ課題だと思う。
「些細なことをいい加減にしないで、もっとまっすぐな目を向けて欲しいと思います」(新宿ルイード、デビューライブでのMCより)

音楽誌が書かないJポップ批評35尾崎豊」(04年)
再録にあたり、弱冠の修正をしました。