尾崎豊『十七歳の地図』ディスクレビュー

このアルバムが登場した時、いったいどれほどのインパクトを持っていたか、現在、どうやって伝えたらいいのだろう…。当時の世相、流行の潮流にどれほど逆行していたか。それを物語るように、発売当初のプレス枚数はわずか2000枚強でしかなかった。
冷戦下の繁栄。生きる上での意味や正しさは形骸化した建前でしか無く、個性は「みんな」で唱えるお題目でしかなかった80s。シニカルに思考停止し、状況を器用に受け入れて「処世する」こと以外に選択肢がなかった明るい狂騒。ガラスとコンクリート、管理教育と校内暴力、いじめの時代。古くて確かなものは壊れていき、新しいものはまだペラペラで窮屈だった。「いま、ここ」以外のものを想像するために、依って立つ根拠が失われていた。
10数年前の学生運動の、幼く余裕のない、性急な正義の振りかざし合いの中での疲れと挫折を引きずっていたインテリ達は、「まじめさ」に対して極端に否定的になり、アレルギー的に嫌悪していた。不安や不満を口にすること、「いま、ここ」を疑うこと、「息苦しさ」を意識すること自体が「ネクラ」な弱者であるとされる、とても恥ずかしいことだった。それは「みんな」からこぼれ落ちる恐怖そのものだった。
だからもう10年近く、男女の恋愛以外のことを歌った歌が、街に流れることはなくなっていた。一部の先鋭的でありたいロックファンは、屈折と無意味と達観そのものを目的としたようなニューウエイブに自閉していた。
そこに、まったくイレギュラーのように登場したのが、18歳の尾崎豊だった。10年ぶりに(しかも今度は、カウンターカルチャーの追い風と一切関係の無いところから)登場した、ストレートに「生きること」丸ごとについて問い、歌い、「叫ぶ」歌手だった。
音作りを手がけたのは、当時メインストリームを一色に染めていたニューミュージックやシティーポップからはみ出すように、ロックの若く青い衝動や疾走感を志向していた先達である佐野元春浜田省吾を支えた西本明、町支寛二の二人。だが現在(04年)の耳で聴けば、やはり80年代ニューミュージックの定型を出るものには聴こえないと思う。ある意味その後「Jポップ」と呼ばれるようになった音の雛型、原型になった音がこれとも言えるため、意識的な音楽ファンには尚更、保守的で無難なものに聴こえるところもあるだろう。しかし、逆に言えば、好事家相手のロックではなく、メジャーなフォーマットの中で聴こえてきたからこそ、このアルバムはこの時代に生々しく、ダイレクトに響いた。
いわゆる「ドンシャリ」の無機的で冷たく平板な音に、透明だけれど生々しく切実な緊張を湛えた尾崎の声が乗る時、教室と、勉強部屋と、匿名の雑踏に閉ざされて、「自分」と「社会」の間に血の通った媒介となる場を持たずに自我形成にあがいていた若者の孤独が、そこには確かに体現されていた。ヒリヒリとした寄る辺なさを埋めるように、メディアがはらまくイメージに煽られ追い立てられているような気分を、「のしかかる虚像の中で心奪われている」(街の風景)と、鋭く歌った。血の通った人間関係の実感を求め、「愛こそすべてだと俺は信じてる」(はじまりさえ歌えない)と、意地になった。
ジャクソン・ブラウンスプリングスティーンに学びながら、そうした自分の姿を「人波の中をかきわけ壁づたいに歩けば/すみからすみはいつくばり強く生きなきゃと思うんだ」「歩道橋の上振り返り焼けつくような夕陽が/今心の地図の上で起こるすべての出来事を照らすよ」(十七歳の地図)と、風景の中に描写し、「自由になれた気がした」(15の夜)と冷静な距離を持って対象化する尾崎。しかし、俯瞰的な視点に決して閉じこもることなく、「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない/正しいものは何なのかそれがこの胸に解るまで」「僕は街にのまれて少し心許しながら/この冷たい街の風に歌い続けてる」(僕が僕であるために)と、摩擦を覚悟しつつ問い続ける、この街の当事者としての意志表明を歌ったのだった。

「音楽雑誌が書かないJポップ批評35尾崎豊」(04年)