尾崎豊『LAST・TEENAGE・APPEARANCE』ディスクレビュー

尾崎10代最後のツアー「LAST・TEENAGE・APPEARANCE」の東京公演、85年11月14、15日の代々木オリンピックプールに計2万5千人を動員したライブを収録した、尾崎初のライブアルバム。
この日のライブは翌年1月に『早すぎる伝説』と題されテレビ放映されて(深夜の放送だったにも拘わらず異例の反響を呼び3月には急遽再放送された)、コアなファン以外がはじめて見た「動く尾崎豊」像でもあったため、長く一般にはこれが10代の尾崎の姿として印象づけられた。しかし、3rdアルバム『壊れた扉から』発表直前のこの時期の尾崎は、最初の大きな転換点に差しかかっていた(10年を経てCD化された85年8月の大阪球場ライブと比べるとそれは鮮明だ)。
「傷をなめあうハイエナの道の脇で転がって/いったい俺は何を主張しかかげるのか」「欲に意地はりあうことから降りられない」(路上のルール)と悩み、「すべてが僕の観念の中で歪められていく」(ドーナツショップ)ことを直視しようとしては疲れて、「俺にとって俺だけがすべてというわけじゃないけど/今夜俺誰のために生きてるわけじゃないだろう」(ドライビングオールナイト)と、自己本位を自覚することと、それに開き直れないバランスを決して手放さない。
が、だからこそその後の尾崎は、暴走族を抜けた不良たちのように実直で子煩悩な大人の自己限定と日常への卒業をすることもできす、かと言って、流行風俗を追いかけ続けることに居直り適応することや、音楽マニア的な興味へと自分の重心をずらしていくことができなかったし、しなかった。ここから聴衆と日常を共有する「歌の現場」を失っていく、20代の彼の孤独なモラトリアムと苦闘がはじまる。
それまでの、日常の中で溜め込んだ思いを発散し、混乱を叩きつけるようなライブからガラッと変わり、この日の尾崎は観客一人一人を勇気づけ、楽しませるために歌おうとしている。そして「俺はオマエらのために命を張る」「真実を求め歩き続けるオマエらを愛している」「笑いたいヤツは笑え。俺を信じるヤツはついてこい!」と、饒舌に見得を切ってみせる。態度は堂に入っていたし、ステージパフォーマンスも彼なりの洗練を見せ、初期のような危なっかしさはなくなっていた。ツアーの中で鍛えられたボーカルも伸びやかに安定している。けれど、同時に闇雲な勢いやスリルは失われてもいた。ミックスもやけにボーカルのバランスが大きくて、バンドとの一体感と勢いに欠ける録音だ。
そして尾崎は「10代の代弁者」を意識的に引き受けきったこのライブによって、広く同世代の支持を集めることとなり、同時にうるさ方のロックファンや音楽誌からは「キザだ」「カリスマ気取り」「オザキは宗教か!?」と、一斉に叩かれることになった。「切実な不満や痛みを叫ぶならそれなりのリアリティを感じるが、「他人のために歌う」なんて態度はゴーマンも甚だしい、エラそうな偽善だ」というわけだ。鬱屈した理屈っぽさや、シニカルに乾いた皮肉が評価され、背伸びした達観を気取る者の多かった80年代のロックシーンや若者文化の中で、尾崎の素手の試行錯誤は格好のスケープゴートだった。
プロの歌い手が「客のために」歌うことは本来当然のことだろう。けれど尾崎は、そしてこの時代のロックは、自己主張と自己表現の生々しさこそが、聴き手にも求められていた。受け手と同じ高さの視線、「等身大」であることを求められ、また自ら求めた。ところが、誰もがてらい無く「素の自分」を表現し、受け入れ合えるような緩い時代でもまだなかったのも、一方の事実だった。彼らは自分に向き合い、互いの理解を求めると同時に、怯え、気負ってもいた。「本当の自分」は恥ずかしくない、カッコイイ自分でなければならなかった。
共感の対象は自分と同じく傷ついた人、悩む人であり、そして同時にその悩みは「リアル」でかつ「恥ずかしくないもの」でなければならなかった。尾崎は、そんな「等身大」のロックスターという矛盾を懸命に、真っ向から引き受け、ドラマチックに生ききろうとした。「等身大」を見せながら、開き直ることなく成長して見せようとし、それを観客に訴えもした。それが苦もなく等身大でいられる現在(04年)から見れば、何とも背負った大袈裟で固いものに見えたとしても。
この日の尾崎は、諦め知らずで無謀だけれど、以後現在に到るまで、彼ほど「希望としてのヒューマニズム」を身体を張って本気で生きようとしたロッカーを、筆者は知らない。

音楽誌が書かないJポップ批評35尾崎豊」(04年)