過去も現在も裁けない

親の介護とか没後手続きに追われて生活状態はずっと苦しいが、自分の場合本当に心身のバランスを損ねるくらい苦しかったのは、親達を具体的に援助できる経済力もなく、そうした自分の事情や、親達自身の現状認識の歪みを説得することも不可能で、それらを実質そのままにして日々の生活に逃げているような罪悪感を抱えて暮らしていた時期だった(それまで、不可能を可能にするための条件を作るために、自分の人生を充分に費やしてきたかと考えると、到底そんな自信も無い)。
だから、保留していたものがいよいよ待った無しになり、介護や手続きに追われ、また両親の頑迷さと自分の心の狭さを日々実感して、やはり近くで共存することは無理だったとはっきり感じると、むしろ気持ちは楽になった。
しかし、僕のような出奔者はともかく、ずっと地元で両親と暮らし、社会の変化で親戚や隣近所の支えや援助を受けることもできず、ただ孤独に親御さんを介護している知人を見ていると、同情すると共に、本当は出来ない我慢をしながら生きていくことが人生の大半なんだよな…と、恥ずかしいような気持ちになる。
地縁、血縁を振り切って出奔することは、かつて古い柵を拒否し、自立して未来を目指す賞賛すべきことだと考えられていたと同時に、地縁や血縁を大切なよすがとして生きる人々から見れば、身勝手で薄情なことでもあった。結局自分は、このどちらに徹することも出来ず、出奔しながらも心の在り方の半分では故郷後ろ髪を引かれているような生き方をしてきた。気にしているだけて、具体的に何かをしたわけでも、出来たわけでも無いのだが。
僕の母は、実家の経済事情のために、急かされるようにして早い結婚をし、時とともに悔いる気持ちが大きくなって、潜在的にはずっと父との関係がちぐはぐで鬱屈していた。その敵討ちをするように、息子たちの教育に入れ込んだが、不肖の息子達はそれぞれ、却って反発したり、圧に潰されてしまったり、結局母の望みは裏切られる形になって、以降ずっと鬱憤を父に向け、しかしそうした今日的な事情や内心にまったく無頓着な戦前生まれの父とすれ違ったまま、長く不安定な精神状態で暮らしていた。認知症が早い時期から進んでしまったのも、こうした事情が影響していると僕は思っている。
だから、経済的に自立して、そこにアイデンティティを築けなかった母の世代に、ずっと同情していた。そういう意味ではある意味、ずっとフェミニストたちと最初の動機を共有しているのだ。
しかし、かといって、現に今更物心ともに、自分の条件を変える方策を持たない母に、具体的に出来ることといえば、金銭的な援助をしたり、世間話の相手になることくらいしかない。そのどちらも、自分が満足に出来たとは到底言えない。
こうした、解決の糸口の見えない悩みを、駆け出しの頃、二回り近く年長の先輩ライターにこぼしてしまったことがあるのだが、まさに柵を振り切る自立へと傾斜していた世代に属する彼から、「マザコンみたいなことを言うな!」と強く否定されてしまった。自分にもその言葉を跳ね返す自信が無かった。
今になってこうしてわかったような振り返り方をしているけれど、それも経済的に個人主義が立ち行かなくなり、そのマイナスが意識されるようになった世相に支えられてのことに過ぎない。
そんな自分だから、過去の立場から現在を裁く気持ちにも、現在の立場から過去を裁く気持ちにもなかなかなれないし、そんな資格も無いと思っている。