ジャクソン・ブラウン&デヴィッド・リンドレー『LOVE IS STRANGE』


高校を出て、地元の県庁所在地に風呂なし四畳半の部屋を借り、フリーターやりながらバンドをやってた頃、キングビスケットレコードという、6、70年代ロックやソウル、ブルース、オールディーズポップスを中心にした品揃えの中古レコード屋によく通っていた。
店主のおじさん(といっても、今の自分よりも若かったはず…)はザ・バンドをこよなく愛するサザンロック、スワンプロックのファンで、大抵いつ行ってもうるさ方の常連客と話し込んでいた。
そんな客の一人に、たぶん若い頃激しい気持ちでロックにのめり込んで、楽な生き筋を踏み外したのだろう(と、20歳そこそこのヤングからは見えた)、小柄で細身な労務者風のおじさん(といってもおそらく30そこそこ…)がいた。
日々の疲れと不満と、ディープな音楽ファンとしての自負とを同時に漂わせ、険のある早口で自意識過剰気味に喋る彼は、おそらく背伸びして渋い音楽を勉強中の若造のことなど、目障りか端から眼中に無かったかのどちらかだっただろう。僕の方も偏屈で面倒くさい(それでいて平気で権威的なことが多い)苦労人や年長マニアは苦手だったので、直に口をきいたことは一度も無かったが、ある日彼が、ジャクソン・ブラウンについて熱く語っていたのが意外で、強く印象に残っている。
単純に自分の音楽的な無知も大きかったのだけれど、僕らの世代にとってジャクソン・ブラウンと言えば浜省、尾崎というイメージで、わざわざ渋い音楽、尖った音楽を探して聴こうとするような人間は、ナイーブでちょっと野暮ったそう…という先入観から、敬遠しがちだったと思う。
一時代前の流行りものでもあった西海岸サウンドには、さしたる思い入れの無さそうだった店主のおじさんもまた、どこか相槌が事務的だったような気がする。


僕は尾崎ファンだったので、彼が影響を度々口にした『孤独なランナー』を聴いてみたりしたが、どうも静かで落ち着き過ぎていて、食い足りない印象を持った。当時の自分は、ロックにもっと青春的な脆さや激しさを求めていて、こんなふうに静かに内省してばかりしていたら、自分のような自信のない人間は、煮詰まったまま身動き出来なくなってしまうと思った。もっとふっきれた、突き抜けた、悩むにしても攻撃的なくらい激しく突き詰めた表現で無ければ、気持ちが鼓舞されないと、あまり心に深く届かず遠ざかってしまった。
だから、地味でまともな普通の人(つまり適度な感傷に浸れるくらいに安定している人)の音楽に思えたジャクソン・ブラウンを、自分よりも遥かに疲れ、辛酸を舐めているように見える頑固者が、ほとんどしがみつくように大切に聴いていること(ヤングの目には、文字通り「日々を生きる支え」になっているようにさえ見えた)を、不思議に感じた。
それでもその時は、音楽マニアが、それまで取り零していたジャンルに新鮮さを求めて、多少大袈裟に入れ込んでいるのだろう、くらいにやり過ごしてしまい、あらためて聴き直してみるようなこともしなかった。


去年の発売から1年余り、ジャクソン・ブラウンとデヴィッド・リンドレーのアコースティックツアーのライブアルバムをよく聴いている。
特にディスク2の1曲目、セカンドアルバムのタイトル曲でもある「フォー・エヴリマン」が好きだ。
彼自身は「僕はドロップ・アウトしてしまおうかって考えたこともあったし、何もかも放り出してしまいたいって思ったことなんか、何度あったかわからないほどでね。「フォー・エヴリマン」はそんなことを歌った歌だ」なんて回想しているが、この曲はクロスビー、スティルス&ナッシュの「木の舟」へのアンサーソングでもあったらしい。核で汚れた世界から、新しい理想の地を求めて船出しようと歌うCSNに対して、「じゃあ、その船に乗れない、取り残された普通の人たちはどうなるんだ?」「ここで普通の人を待つ普通の人でいるよ」と。
ロック革命の時代の反動として、個人的、内省的な表現に傾斜した70年代のシンガソングライターらしい、とも括れるけれど、中でもジャクソン・ブラウンの朴訥な純情と、視線の低さは際立っていて、芸術的な尖鋭さ、或いは個的な洗練へと、表現を収斂させがちだった同時代の才気に富むSSW達の中でも、独特の間口の広さを感じる。
それでいて、優しく、暖かいだけではない、意思的な思索と問いかけを(多くの場合そこに解決はないとしても)しぶとく手放さない姿勢も好ましい。生真面目さゆえ、後にぐっと政治に傾斜して行き、80年代的な大味な音作りも手伝って曲に気持ちがフィットしにくくなり、そうした時期のアルバムは今もほとんど聴かないのだが、必要と感じたらそう動かずにはいられない彼の真摯さ、一徹さ自体は、個々の主張自体に同意できるできないにかかわらず、信頼に値すると感じられる。


万年青年のようにケレンの無い横顔は、長い月日の風雪に洗われ続けて来た。妻の自殺や親しい友人たちの早逝、誰もが豊かさに馴染み切って楽しさや格好良さを求め競い、空虚や退屈に自己憧着していく中で、彼の善意と内省がアウトオブデイトになった時代も長かった。それでも、その迷いや弱さを引き受けた、柔らかで凛とした声も、瑞々しいメロディも、深まりこそすれ決して損なわれることは無かった(彼のような人を見ていると、正しく信仰を持つことの「強さ」を、そこから遠い者として痛感する)。
ここ十年ほどは、活動のペースをぐっと押さえ、パーソナルな作風に回帰しているが、このライブアルバムでも愚直なまでの生真面目さは健在で、マイノリティの音楽に積極的に場を与えようと、ミスマッチやアンバランスを顧みず、ツアー先のスペインのミュージシャンを登場させ、多くの曲を共演しているのも印象的だった(多少の散漫さが、リラックスした自由な演奏の魅力も手伝って、いつもの彼のアルバムにない風通しの良さを生んでもいる)。そして何より、そうした真摯さと、柔らかい心を手放さず、迷いながらもしぶとく積み重ねて来た時間への静かな肯定を感じさせる、過去の彼自身の曲の再演が素晴らしい。
数年前の、ギター弾き語りによるセルフカバーライブ2枚も良かったけれど、アメリカ伝統音楽の豊饒さを丸ごと体現するような盟友デヴィッド・リンドレーのサポートによって、年輪を重ねた真摯さが転化した、現在の彼と曲の持つ柔らかく暖かい包容力が、より開かれた形で伝わってくる。


楽しく、心地良く、格好良いだけでは、取り残されたようで却って寂しくなる、という人をこそ楽しくさせてくれるアルバム。
あの常連のおじさんも、元気で聴いていてくれたらいいなと思う。



ラヴ・イズ・ストレンジ

ラヴ・イズ・ストレンジ

フォー・エヴリマン

フォー・エヴリマン