尾崎豊『誕生』ディスクレビュー(再録にあたり一部修正)

『街路樹』発表後の東京ドームライブを最後に、尾崎はデビュー時から二人三脚のように歩みを共にしてきた所属事務所、マザーエンタープライズを離れ、ファンには消息が見えなくなった。
今までも活動は危なっかしく断続的だったから、待たされることには慣れていたはずなのだが(コンスタントな活動を全うできたのは、10代最後の1年間と、『誕生』発表翌年の「BIRTH」ツアー、つまり早すぎた晩年の1年間だけだった)、「太陽の破片」以降の虚ろな印象もあって、「このまま音楽をやめて姿を消すんじゃないか」という予感さえあった。彼が平穏を得られるのならば、日常に戻ってやり直してもいいんじゃないか、とも正直思っていた(後に、紡木たくに対してそう思ったのと同じように)。良くも悪くもその頃の尾崎に、社会の広がりや変化と格闘するような活動や表現を、自然に求めなくなっていた。
『街路樹』発表から彼が姿を消していた2年間は、ちょうどバンドブームの最盛期にあたる。彼と同世代のバンドたちが次々にデビューして「言文一致体」の歌を推し進め、今度は正真正銘の等身大の恋愛や一人暮らし、学校生活、小さなエゴの表出や皮肉のやり取りといった当たり前の日常を、そのまま衒いなく歌っていた。その中で、尾崎の日常から飛翔しより良きものを模索するような歌は、どこか優等生的な公式見解のように固く、重く、真面目で、ちょっと古臭く保守的に見え始めていた。直近の過去に強いリアリティを持った尾崎の感性は、実は同世代の中でかなり古風なものだったのだ(奥田民生岡村靖幸が同年だという事実は、現在(04年)の若い音楽ファンにはかなり意外に感じられるのではないか)。
その後、尾崎は突然『月刊カドカワ』誌上で小説やインタビューを発表し始める。しかしその内容は、初期の彼に思い入れていた者にとっては、相当に辛いものだった。猜疑心や自己憐憫、被害者意識があからさまな小説や、そうした自身の幼児性にまったく自覚の無いまま、妙に高みに立ったような分別臭い達観のポーズを見せるインタビューのちぐはぐな痛々しさ、往時の透明感がまったく消え去った荒み方に、「いったいどうしてしまったんだ!?」という戸惑いと失望を打ち消しようがなかった。
先行シングルとして発表された「LOVEWAY」は、星勝のアレンジによってデビュー以前のフォーク的ルーツに立ち返り、尾崎版「氷の世界」を目指したような曲。畳み掛けるような言葉のリズム感と、微妙に垢抜けないデジタルビートの組み合わせが生々しく新鮮で、インパクトはあった。歌われているのは「人は誰も愛を求めているが、欲望に翻弄され引きずられる。けれどそうした愚かさも生きていくための過程であり、その姿はいじらしく愛おしい」といった内容。街路樹からのテーマを引き継いだものとも受け取れるが、観念語をつぎはぎした性急さが、どうも上滑りに自己完結して聞こえる。日常や趣味性に耽溺した表現で人間性全体を切り捨てることのできない、尾崎の古風な真面目さによる結果だとも思うし、彼なりに10代の小さな世界から踏み出した大きな歌を歌おうとしていることは伝わってくる。だが、記号的、俯瞰的な理解で性急にすべてを把握したつもりになろうという焦りが目立ち、具体的な相手や場面にこだわってぐっと掘り下げるような、初期の美点が消えてしまっている。結果、思い込みと理解のポーズが空回りしてしまっているように聞こえる。
具体的なストーリー仕立ての他の曲となると、さらに問題があからさまだ。人間が当たり前に抱えるエゴと孤独を、穏当に受け入れ慣れていくプロセスを踏めず、そんな自分と一般的な感覚との距離を測れないままに、それを大袈裟な罪や哀しみとして嘆くことで、どんどん歌は仰々しくなり、ひとりよがりにリアリティを失っていく。
西海岸のスタジオ・ミュージシャンたちによる分厚いロックサウンドも、工業製品のように柔らかなニュアンスを欠き、粗雑でちぐはぐな印象を増幅してしまっている。バンドサウンド原理主義的な当時の空気や、ロック教養の下地の希薄な彼のコンプレックスも手伝っての選択かと想像するが、フュージョン的な音からスタートし、手探りで歌世界を支え、一体となていったハート・オブ・クラクションのほうが、未完成で等身大の彼の良さをよく浮かび上がらせることが出来ていたと思う。
時はまさにバブル絶頂期。「等身大」もただの当たり前となり、音楽教養の蓄積とセンスそのものを目的化し競いあう「渋谷系」の時代。消費個人主義への適応を初めから前提として育ち、趣味の積み重ねと厚みをアイデンティティとする後続世代に囲まれて、尾崎の古さ、貧しさと、足場の失われ方が際立ってしまっていた。

音楽誌が書かないJポップ批評35尾崎豊」(04年)
今回、当ブログに再録するにあたり、表現を正確、鮮明にするため一部修正した。