尾崎豊『街路樹』ディスクレビュー

これほど発売を待ちわび、またじらされたアルバムはなかった。おそらくこれは尾崎直撃世代共通の思いだったろうと思う。10代最後のツアーの後、ニューヨークに渡っていた1年の間に、フィルムコンサート「625DAYS」が20万人を動員。本人不在の間に、認知度は何倍にも膨れあがり、渡辺美里らをはじめ、彼を表面的になぞったような10代向けのメッセージソングがチャートを席巻した。
尾崎はまさに時の人となり、新展開を待望する気運は高まる一方だったが、予告されていた87年4月が7月になり、9月になっても新作は発表されなかった。その間に、アルバムタイトル『街路樹』を冠したツアーが開始された。冒頭は新曲の「LIFE」。鼓動のような電子音が流れ、ピンスポットの中に浮かび上がる尾崎。それまでに無かった、静謐で内省的な響きをバックに、冷めた内省とその限界を見据えた人生の受容への姿勢が歌われた。活動休止中に彼を知り、10代の彼のストレートさと激しさを期待していた新しいファンは或いは困惑したかもしれないけれど、3rdアルバムまでの流れを見てきた僕たちには、彼の思考の持続と確実な深まりが感じられ、否が応でもにも期待は高まった。
しかし10月、結局アルバム発売は無期延期となりツアーも中断。かわりに初期から「反核」のタイトルで歌われ、このツアーで再び歌われた「核(CORE)」が、度々苦しげに座り込み重さが付きまとったライブの中で一服の清涼剤のようだった「街角の風の中」をB面にシングルカットされた。この時期は彼の暗黒時代のように語られがちだが、実は彼が、最も成熟していた時期ではなかったか。混乱を収拾のつかないままに曲想に刻んだシングルバージョンの「核(CORE)」と、その過剰さの原質である繊細さが透明感へと昇華した、草原に吹く風のようなメロディとアレンジにのせ「使い古された言葉でもちょっと気を利かせてみると/口ごもるよりはましな歌も探しだせるさ」と人の弱さから生ずる「苦味」を優しい諦念で受け止める「街角の風の中」は、『街路樹』の重要なワンピースになるべきものだったと思う。
翌88年1月に彼は覚醒剤不法所持で逮捕。そのことに僕は落胆したりはしなかった。けれど復帰後発表されたシングル「太陽の破片」と、『夜のヒットスタジオ』出演時の彼には初めて一抹の違和感を抱いた。そこで歌われる「君」)と「僕」、歌う彼と聴衆である僕たちの間の、決して完全には埋まらない「距離」をに対するデリカシーのなさを感じ、大袈裟に力んで救済を歌うほどに「何処から歌ってるんだ?」と空々しかったのだ。決して互いの距離を消すことのないそれぞれの中のエゴを見据えながら歌う孤独を、誤魔化し手放そうとしているような気配を漠然と感じた。ツアー中断中の1年の間に一体何があったのか?今思うと、これが後期の彼の「自分の見失い方」の最初の兆候だったと思う。
「核(CORE)」はじめ数曲はボーカルが録り直されているが、もったいぶった仰々しさばかりが目立つ出来になってしまった。「太陽~」のB面曲「遠い空」も流れの中で浮いている。この2曲をシングルバージョンと「街角~」に入れ替えたものが、僕の中では今も本来の『街路樹』だ。
こうした事情でこのアルバムの真価は現在伝わりにくい。自分の感情を理性的に分析していく中で、彼が本来希求してやまたい優しさや温かさから遠ざかる気がして混乱したり、内省を深めるほど聴き手と通じ合うことが難しくなる孤独やジレンマも感じていただろう。けれどそれは、以下に引用するよう同時期の散文詩に明らかなように、儚さが不穏なほどに繊細すぎる感受性ゆえに、すべてを優しい諦めの中で受容したいと願う彼の資質から生じたものだった。
「雑草の中で鳴いている鈴虫たちの音が闇を包む/山頂から下り、湧き水が小さなせせらぎを作るところで、僕は親父の背中を見ていた/乾いたノドは空になった水筒をカラカラ感じていた/親父は僕に言った。「こもれ日を感じるだろ」/夕暮れ間ぎわの、生い茂る枝葉よりももっと近くに、僕は、それを感じていた」(東海ラジオ「SFロックステーション」『街路樹』特集での朗読より)
バンドブームの中、狭義のロック原理主義の風潮がシーンを覆っていた当時、正当に受け止められ評価されにくかったけれど、ラスト2曲は、吉野金次のエンジニアリングによる透徹した音像もあいまって、彼のこうした資質が確かに楽曲へと昇華した金字塔だと思う。

音楽誌が書かないJポップ批評35尾崎豊」(04年)