『ノー・ディレクション・ホーム』マーティン・スコセッシ


わざわざ感想書くのも何だかな、って思ってたけどやはり態度をはっきりさせておこうと思う。
音楽云々以前に、俺は『ノー・ディレクション・ホーム』という映画を観てボブ・ディランというヤツが本当に大嫌いになった。
「激動の時代に翻弄された才能ある若者」という、情状酌量の余地がまったく消えた。


マーチン・スコセッシはある意味誠実なヤツで、ディランが「空気を読む」のがうまい、いい加減でお調子者なミーハー野郎であることを、しっかりそのまま浮き彫りにしている。


さびれた田舎町に生まれたディランは、フォークやブルースといった生々しい音楽にのめり込み、自分もその列に連なろうとする。そして、何とか世に出ようとあがく。
やがて、ベトナム反戦公民権運動の時流に乗り、また若く青いヒロイズムから、若者らしい社会批判的なプロテストソングを歌う。
しかし実のところ、ディラン自身には、そうした衝動やそれを音楽にしてカタルシスを得たり、他人と共有したい、またそこで評価を得たいという気持ちはあっても、自分が歌で扱っている政治や状況と真摯に向き合い、掘り下げるような姿勢も資質も、まったくなかった。
要は、機を見るに聡く、器用なトリックスターでしかなかったのだ。


と、ここまではまあ仕方がない。
しかし、彼の、自分がやったことに対する自覚の仕方がまったく最低だ。
俺は当時の若者のカウンターカルチャー一般ってものを全く評価していないし、自分達の希望的で浅はかな人間観に、集団で無反省にたばになって酔っ払っていい気になってる連中か、真面目なだけで世間を知らない頭の不自由な可哀相な連中だと思っているが、ディランがやったことは、そういういちばん騙しやすい連中につけこんだ結婚サギみたいなものだ。
そう、「サギ師」という言葉が、ディランを表現するのに一番ぴったりくる印象だ。


しかし、時流は変わって、そうしたダサいヤツらと共倒れになることを嫌った彼は、ロックに、純音楽的な方向に乗り換えていく。
まあ、それも自分の資質に従った、自然でやむを得ない成り行きだと思うし、それ自体は責めるにあたらない。
けれど、若気の至りに酔っ払ったり、いい加減な気持ちで時流を利用してやってたことだってことは認めて、その分のリスクは受け止めるべきだろう。例え半分は、状況のはずみで、自分の予想を超えた巨大な人気の渦に巻き込まれ、祭り上げられてしまったのだとしても。


確かに、彼を攻撃する左翼やフォークファンは馬鹿だし、マスコミの姿勢は無礼で恥知らずなものだったけれど、それに対置してディランを擁護したり、彼に同情したりっていうのは贔屓の引き倒しだし、これもまたサギの構図だ。


と、こう突きつけられたところで、「ロック」という信仰の最大の神の一人であるディランファン、ロックファンたちは、平気でスルーできてしまうだろう。
最初は「時代に対する鋭い批評者」としてもてはやし、次ぎは「時代の激流に翻弄された繊細な魂」として自分を重ねて同情し、最後は「いい加減な部分も含めて人間らしい」と開き直った肯定をする。
とにかく、あらかじめ「ディランは良い」という結論先にありきなのだから、話になりようがない。
そうした「意味ありげ」な部分を付加価値として残しながら偉そうな顔でロックオタクやってるような連中の気色の悪さが、上映館(吉祥寺バウスシアター2)の中にも充満していた(俺の後ろに座っていたおっさんが、ディランがマスコミを煙に巻くような発言をするたびにこれ見よがしに笑うのが不愉快だったので、上映終了後ヤキ入れてやろうと思って睨みつけたら、そそくさと逃げていきやがった)。
スコセッシも、こうした現場を細かく並べてはいるのだが、彼自身の視点や立場がどうにも不明瞭な印象を持った。
もっとはっきり言えば、なんだかんだ言って、結局ディランに(そして当時の自分に)同情的な、曖昧な共感と自己正当化を感じた。


俺は、Jポップ批評で尾崎豊の特集をやったとき、彼に親愛と共感を持ちながらも、その否定面や限界についても掘り下げ、自分なりの提言も書いた。
しかし、彼を安易に「弱者の教祖」的に揶揄するロックファン連中に、それを誠実にやった人間を、俺はただの一人として知らない。集団に埋没していい気になっている人間に、誠実さは期待できないということが、今回の映画でもよくわかった。
ロックやフォークといった、既成の音楽産業や社会を前提に生きている自分をまず受け入れる「カセ」を免除された音楽表現の、不潔と無責任を強く感じた。


オデッタやビリー・ホリデイらの、貴重で素晴らしい音楽映像と並べられているだけに、それらの音楽への感動と、ディランやカウンターカルチャーの若者の浮ついた浅はかさが好対照で、本当に不安定な気持ちにさせてくれる映画だった。
特にザ・バンドを従えている時代など、風俗やファッションとして見ると本当にカッコイイだけに余計に。



しかし俺は、それだけで自分から結婚サギの信者になるつもりは毛頭ない。