北中正和「ストレートなメッセージがさわやかに届く尾崎豊の歌」(「ミュージックマガジン」85年1月号)

目が気になった。
10月末の土曜日の夕刻。場所は原宿のカルデサック。開店までにはまだあと少し時間がある。ガランとした店内。尾崎豊は、テーブルの向かい側にすわって、ワイルド・ターキーオン・ザ・ロックを手にしている。何のへんてつもないインタビューの席だ。
ときどき目が光る。
この目はどこかで見たことがある。
使い方ひとつで満員の観客の心を舞台に釘付けにできる鍛え抜かれた旅役者の目か。ニュース・カメラに写し出された逮捕の瞬間の殺人容疑者のレンズを射抜く目か。
似ているようでちがう。
ちがうようで似ている。
なみなみと水をたたえた水瓶のように、さまざまな感情が入れかわりたちかわりあらわれて、ゆらゆら揺れている。その目が焦点を求めてためらいがちにぼくに向けられる。
ひとつひとつの言葉をたしかめるように、おだやかに、ていねいに話す。適当な言葉がみつからないときでも、回り道をして、かわりの言葉をみつけてくる。それでいて、けっして話をそらすことがない。考えながら話しているときの表情は少しあつぼったい。抽象的な話になると、ふたしかなものをつかまえて宙に浮いたような表情になる。はにかみを含んだ笑顔には、人をひきつけずにはおかないやわらかさがある。骨折治療中に、六本木で深夜まで飲みつぶれていた、公衆便所の前で寝てしまった…などと伝えられる激しい一面が、目の前で話していると嘘のようだ。そんなときに目がスーッと空気を切る。

尾崎豊は、1年前にCBSソニー・レコードからデビューしたシンガー・ソングライターだ。生まれたのは1965年11月19日。東京。青山学院高等部在学中に、CBSソニーのSDオーディションに合格。デビュー作は1983年12月1日のLP『十七歳の地図』だった。
17歳という若さと、満たされない学校生活や人間関係を飾らぬ言葉でぶつけた歌が注目を集め、少しずつ音楽誌やティーンズ向け週刊誌で騒がれはじめる。特に、高校生活に疑問を投げかけた「15の夜」のような歌と、彼自身が高校を中退したことが結びつけられて話題を呼ぶ。そして8月4日、東京の日比谷野外音楽堂で行われたアトミック・カフェ・ミュージック・フェスティバル84出演中、6メートルの高さの照明用パイプからジャンプして、左足のかかとを骨折。いったんは退場したものの、スタッフに支えられて再登場し、「十七歳の地図」「愛の消えた街」などをうたった。この事件がひきがねになったのか、LPはオリコンのチャートにも入り、現在まで約5万枚の売り上げ(CBSソニー発表)も記録している。
音楽的な履歴を彼に語ってもらおう。
「小学生のときに井上陽水の『氷の世界』を聞いたのが音楽に興味を持った最初です。その中に「あかずの踏切り」という歌がありますが、そのたったひとことでぼくの中に風景が浮かんできたのが新鮮で、歌にはこういうおもしろいところがあるんだなと…。それまで歌謡曲を聞いても全然興味なかったんですが、陽水の歌には、ぼくが人から受けた疎外感にふれるようなところがあったんです。小学校6年でギターを手にするようになって、中学に入って、ギターを弾けるのはめずらしいというので文化祭でうたったりして、それから音楽に接することが増え、人からうたってくれと言われるようになった。一方では登校拒否生徒になったりして…。そのうち、自分がうたっているときにだけ、人はわかってくれるんじゃないか、うたうことによって、日頃伝えられなかった気持が相手にストレートに入っていくんじゃないか、と感じはじめて、ぼく自身から、みんなの前でうたうことが、切り離せなくなっていった。そのころは、因幡晃とかさだまさしの曲が多かった。でも、うたっているうちに、その曲はその曲であって、ぼくの心ではないことにものたりなさも感じてきた。
高校に入って出会ったのがジャクソン・ブラウンの『孤独なランナー』でした。彼の存在を知ってたわけじゃなくて、あるときふと外盤を聞いてみようと思って買ったのが、たまたまそのレコードだったんです。全く価値観のちがうものをうたっていたのが衝撃的で、新鮮で…。だいたい洋楽自体がきらいだったんです。歌詞がわかんないし、うたってる内容はさだまさしとか因幡晃とあまり変んないにちがいない、みたいなイメージもあって、それだったらフォークのほうがいいなという気持もあったりして…。その後に聞いたのがビリー・ジョエルだったり、アナーキーだったりした。アナーキーは友達にすすめられて聞いて、最初はパンクなんて嫌いな分野だったんですけど、すごく新鮮でした。自分の率直な意見を言う人たちにそれまで出会わなかったから、思ったことをストレートに伝える彼らにすごくびっくりして、こういう気持も大切なんだなと思った。ただ、自分の意見をぶつけることができても、もしわかりあえなかったらどうしようという気持がぼくにはあるんです。
ブルース・スプリングスティーンは『ザ・リバー』ではじめて聞いて、最初はそれほど衝撃的でもなかったけど、聞いているうちにだんだんひきずりこまれるところがあって、味が出てきて、ぼくの心に定着するようになった。ぱっと見ると、他愛のない恋の歌だったりするんだけど、うたい方がすごくしわがれていて全然ちがうイメージが伝わってきて、好きになっていった。佐野元春の歌は『ナイアガラ・トライアングルVOL2』ではじめて聞いたんですが、日本でもこういうことをうたってる人がいたんだなと、ほっとひと安心した。言葉の持つ説得力みたいなものだと思うんです。「雪がチラホラして寒くて、キミも寒いだろう」みたいな歌は聞いたことはありましたけど、「街に暮らしているとシニカルな気分になっていく」なんて歌詞は、それまで聞いたことがなかったですからね。でもそれは佐野さんの歌で、ぼくの生活とはいっさい関係がなかった。
そのころぼくには、学校ってものがあったり、佐野さんに見えない部分のぼくらの生活があったと思うんです。それがやっぱり、じゃ、自分で歌を書いてみようというところにつながっていった」

 

尾崎豊の歌は、しばしば歌詞のストレートなメッセージが話題になる。たとえば、「少しずつ色んな意味が解りかけてるけど決して授業で教わったことなんかじゃない」(「十七歳の地図」)という歌詞は、ことあるごとに引用されてきた。たしかに彼の歌にそういう面がないわけではない。しかしそうした意味性だけにこだわっていると、彼の歌とすれちがうような気がしてならない。話をもう少し具体的にすすめるために、ひとつ歌詞を引用しよう。

落書きの教科書と外ばかり見てる俺
超高層ビルの上の空届かない夢を見てる
やりばのない気持ちの扉破りだい
校舎の裏煙草をふかして見つかれば逃げ場もない
しゃがんでかたまり背を向けながら
心のひとつも解りあえない大人達をにらむ
そして仲間達は今家出の計画をたてる
とにかくもう学校や家には帰りたくない
自分の存在が何なのかさえ解らず震えている
15の夜ー

盗んだバイクで走り出す行き先も解らないまま
暗い夜の帳りの中へ
誰にも縛られたくないと逃げ込んだこの夜に
自由になれた気がした15の夜
(「15の夜」の1番)

前半は静かに語るようにうたわれ、後半はロックンロール調になる。サウンドはフォークロック。「十七歳の地図」では、もろにブルース・スプリングスティーンを思わせるようなアレンジも使われている。しかし彼のメロディ・ライン、歌詞のうたい方は、スプリングスティーンとは似ても似つかない。ロックンロールではがなりたてるが「オー・マイ・リトル・ガール」のようにゆっくりした歌ではオーソドックスな美声である。歌詞をできるだけ明瞭に聞かせたいという配慮があるのだろう。70年代フォークのさまざまな流れの現在進行形に立ち合っているような気がする。
「15の夜」は、実際に15歳のときに友人と家出したときの体験をもとに作った歌だという。言葉は明快で、ストレートだ。学校という形の束縛から逃れようと突っ走って、束縛を断ち切ったと思った瞬間、ふと道に迷っていたような感覚が、少し不器用に、饒舌気味の言葉にとらえられている。10代でこれだけの歌を作れる人は少ないだろう。
この歌にかぎらず、総じて、彼の歌の心理の動きは、まっすぐで素裸に近い。よく言えば、純真だ。すれていない。若さが輝いている。素直な息づかいに満ちている。別の見方をすれば、単純だ。屈折が少ない。練れていない。皮肉を知らない。もちろん、彼自身が皮肉を知らないわけではないだろう。心の内側の何かが、彼にまっすぐな歌を作らせているのだ。だから彼の歌は、たとえ教条くさいものでも意外にさわやかだ。
とはいえ、何かを訴えようとするあまり、言葉が彼の中で空回りしているところも、まだ目立っている。「愛の光をともし続けたい」(「はじまりさえ歌えない」)、「忘れかけてた真心教えてくれた」(「傷つけた人々へ」)といった「家の光日めくりカレンダー」のような歌詞は、言葉へのよりかかりが強すぎる。これでは牡蠣殻のように心も閉ざしている人々には届かないだろう。
「15の夜」はまた、ぼくには岡林信康の昔の歌「それで自由になったのかい」や「家を出たけれど」といった歌を思い出させる。尾崎豊は岡林の歌など聞いたことがないだろうし、岡林の歌を知らない人も多いと思うので少し歌詞を引用しよう。

いくらブタ箱の臭いまずいメシが
うまくなったところで
それで自由になったのかい
それで自由になれたのかよ
そりゃよかったね給料が上がったのかい
組合のおかげだね
上がった給料で一体何を買う
テレビでいつも云ってる車を買うのかい
それで自由になったのかい
それで自由になれたのかよ
あんたの云ってる自由なんて
ブタ箱の中の自由さ
俺達が欲しいのは
ブタ箱の中での
より良い生活なんかじゃないのさ
新しい世界さ
新しい世界さ
(「それで自由になったのかい」の1番)

いまあらためて書き写してみると、公務員の皆様に耳を掃除して聞いて欲しくなるような歌だが、それはともかく、60年代関西フォークの記念碑と言われたこの歌では、自由は「賃上げによる豊かな生活」と概念規定されている。もちろん岡林はそんな自由を自戒をこめて嘲笑しているのだが、残念ながら否定される自由の内実が薄っぺらで概念的なために、歌そのものが喚起するほんらいの自由のイメージも痩せたままである。
尾崎豊は「15の夜」以外に、まだレコード化していない「スクランブリング・ロックンロール」でも「自由っていったいなんだいどうすりゃ自由になるかい」といった歌詞をうたっている。彼の自由は、しかし「豊かな生活」といった包括的な概念ではなく、たとえばバイクで夜の帳りの中へ駆けこんでいく感覚(「15の夜」)に結びついたものであったり、スクランブル交差点を歩く見知らぬ他人に語りかける手掛り(「スクランブリング・ロックンロール」)だったりする。皮膚感覚でたしかめたうえで、「自由になれた「気がした」」と対象化する視線には、岡林の歌にはなかった官能的な柔軟性がある。それはけっして歌詞の意味性だけには、還元できないものなのだ。

「高校2年のとき、10人ばかりの仲間と集まって、近況を話しあったことがあるんです。優等生はひとりもいなくて、ドロップ・アウト気味の連中ばかり。そのうち7人は結局高校を中退しました。でも、みんな、中学出てすぐに調理師の学校に入って、調理師になった奴がいたり、高校やめたら親のあとを継ぐと言ってる奴がいたり、めざすものがはっきりしてる。そのころぼくは、大学を出て場末の酒場でピアノ弾き語りでもやってみたい、なんて言ってたんですが、ぼくだけ中途半端な状態だなと言われて、ズキッとくるものがあった。それでとりあえずオーディションを受けてみようとテープを送った。でもどうしてもプロになりたいという気がなかったので、オーディションも予定日にサボッて行かなかった。そしたらわざわざ電話をもらって、次の日もう一日あるから来ないかと言われて…。でもその日も、文化祭に友情出演でうたいに行くような気分でした。プロだからいいというものでもないと思うんです。プロというのはたまたま機会を与えられた人なわけですよね。ぼくの中に音楽が必要だったのはプロになるとかレコードを出してどうこうする以前のものだったんです。自覚の足りない奴だと思われるかもしれませんが…」
しかし現在の尾崎豊は、れっきとしたプロの歌手である。新人のシンガー・ソングライターで、シングル・ヒットもなしに5万枚ものLPがデビュー1年で売れた例は、最近ではめずらしい。来年春発売をめざしてのレコーディングの後は、12月から2月まで全国約20か所でのツアーもある。自分をとりまく環境の急激な変化に彼はいくぶんとまどっているようにも見える。
「はじめてぼくの曲がラジオで流れたとき聞いてるぼくがすごくちっぽけに思えた。虚像とのギャップっていうのかな。それをすごく感じてしまった。普通マスメディアを通して出てくる人は、おもしろい人だと思うんです。でもはたして自分はおもしろいと思われるような人間なんだろうかと」
「そんなことはない。おもしろいですよ」
「そうですかァ…。とにかく自分の中の足りなさを感じた。ぼくの中に、こういう世界に入ったら、プロモーションやって雑誌に記事も載るようになるだろう、レコードもかかるだろうと思っていたから、はずかしいとかは考えなかったけど、自分がやったところじゃないとこで、自分というものを動かしてる人がいて、カンちがいされてったりすることがある、というのはよくわかってきた。誤解される部分があるのはいいんですが、人との距離がだんだんわからなくなってくるのが恐いですね。ぼく自身歌を作ってるときは全然考えなかったけど、雑誌で記事を見て、たとえば「中退のロックンローラー」という面が問題になっているという見方がある。ぼく自身もある時期、高校でいやな問題があって、だから歌作れたのかなという雰囲気がある。だけどぼくがいちばんうたいたかったのは、アナーキーなことじゃなくて、愛を伝えたかったんだということで、それがぼくにとっては重要なことなんです。そう思ってない人には、どうして愛だの恋だのといった言葉を使うのかわからない、キザだねという反応がある。でも、そういう人たちにもわかりやすく伝えられるのが音楽じゃないかなと。そうじゃなくて生きられる人は、それでいいんじゃないかと思うけど、人間、自分をひとりに置いてみて、さし迫るときってあると思うんです。ある人のために心の安まる曲があったらいいなと思う。真正面から考えていく姿勢があれば、自分自身で解決していくことに…ぼくの歌がそこまでの力を持つかどうかは別問題ですが…なればいいと思うんです。逃避とかじゃなくて。それを言うならロックンロールで「愛してるぜイェイ…」といってるほうがよっぽど逃避なんじゃないでしょうか」

80年代に入ってからの日本の流行歌に対するぼくのいちばんの関心は、歌詞の浮遊しそうな軽さ、あるいは歌詞の意味性の崩壊だった。歌の比重が少ないYMOの登場。サザンオールスターズRCサクセション佐野元春らの歌詞の脈絡の飛躍のスピード、アイドルの歌のサビの部分以外にはほとんど聞きとれない歌詞、パロディとしかいいようのない演歌、風景の記号と化したいわゆるニューミュージック。どれひとつとりあげても、崩壊・浮遊のきざしばかりだ。だからこそデジタル・キーボードの擬現実音やスクラッチで吃音状態になった歌が現実感を持って迫ってくる。トーキング・ヘッズではないが、ストップ・メイキング・センスの時代である。その彼方に見えるのは「ザ・デイ・アフター」の荒野なのか、それとも「バベル17」のような高速多重言語のユートピアなのか。そんな時代に尾崎豊は、あえて、ささやかに、言葉のいかりをおろしはじめたのである。

(「ミュージック・マガジン」85年1月号)

ロック第一世代による最も丁寧でフェアな、リアルタイムの尾崎評のひとつ。
先入観の無い好意が尾崎にも伝わったのか、彼も構えず、繕わず、とても率直に話しているように思う。
発表数年後の時点で初めて読んだ時には、尾崎の歌う内容に対する直接の応答や意見ではなく、分析と紹介に徹した内容を少し物足りなく感じた記憶があるけれど(実際、尾崎自身を含めた殆どすべての同時代人同様彼も、世の中丸ごと豊かさと安楽に浸り膿んでいくミーイズムの自由を相対化する視野も、それを越えようとした時にぶつかる正義の問題への見識も持ってはいないのだが…)、今読むととても冷静でじっくりと誠実な内容で、率直に良い記事だと思う。当時の若いファンの1人として、ありがとうと言いたくなった。

それにしても、北中氏が末尾で指摘するロックの歌詞(に限らず、世に飛び交う言葉や情報)の、実感的なプロセスを端折った圧縮や飛躍も、演歌的な人情の「溜め」を欠く形骸化も、ニューミュージック、シティポップ、アイドルソングなどに共通する二次的な風景のように記号化された感性も、既に全世代に共通するベーシックな感性となり、それを相対化する他者の視線を失ってしまった。長い消費個人主義の時代が続いた中、人々は他者が呼びかける声をまず、うるさいノイズと感じるようになってしまっている。それはまさに、尾崎にはじまるメッセージロックの一瞬のブームのあと、それを踏み台にするように否定したバブルとサブカルチャーの時代と共に始まり、定着した。
消費者としての仮初めの個人を支えていた豊さがついに揺らぎ始めた今、次の世代はこの空白をどう意識し、埋めて行けるのだろうか。

 

11日追記。
昨日上げた北中氏の文章には、同世代の岡林の曲の記憶を反芻しながら、それを批評的に超えて行こうとしたり、また当時その流れが途絶えていたことへの彼なりの違和や懐疑が述べられ、読者に投げかけられたりしているのだが、現在では好き嫌いはともかく、もはや岡林のような過去の権威は懐疑され批評されることが無く、ジャンルの多様化の為に各々が他者の視線を失い、あらかじめ拒否することが当然になってしまっているように思う(それは実は、岡林の歌(に限らずあらゆる他者の声が)、真剣な反論が生まれるほど真に受けて聞かれることが無くなっているということだと思う。僕はむしろずっと古く聞こえていた岡林の「それで自由になったのかい」が、世の中が傾くと共にいつの間にか、現在にストレートに刺さる歌と感じられるようになっていることに驚いている)。公式的?な評価を決定する商業媒体が衰退過程にあるから尚更萎縮して、過去の権威と現在の各ジャンルごとの流行のみに閉じていることも、他者への視野を狭め、風通しを悪くしてしまっていると思う。

現在の(支配的な価値観からの)視点から過去を回顧し商品化することは盛んな一方、現在に至る過去からの脈絡を確かめ、或いは疑うために立ち止まることを、回顧やノスタルジーだとして忌避し、闇雲に現在を追認して批判を封じるような姿勢、思い込みは根強い。