星野博美『銭湯の女神』『のりたまと煙突』


わずわらしさを厭わず様々な人や土地と付き合い、眺め、肌で感じたものを流さずに、時間をかけてつなぎとめる言葉。
行動にも思考にも、手間と時間を惜しまない自信に裏打ちされた、簡潔できっぱりとした文章。
同時代、それもほとんど同世代に、こんな書き手が存在することに、驚きと嬉しさを感じずにいられない。


以下、自分などが論評の言葉を加えるのがおこがましい、という思いを大前提に、今回は感想とも紹介とも言えないような、彼女の文章に反射されて浮かび上がった自分の立場(と言える程結構なものではないが…)と内心について、出来るだけ正直に書いてみたい。


面倒でも外に出ていって、積極的に社会や他人に関わらなければ、いい仕事にも友達にも出会えない。
勉強したり、練習したり、一つ一つのことに手間を惜しまない習慣をつけなければ、暮らしは楽しくも豊かにもならない。
けれども自分は小心ななまけ者で、そういう手間や面倒を最小限に、いかに端折って暮らすか(そのくせ、結果の方はいかに最大限に得るか)を、まず考えて生きてきた気がする。


世間一般の基準よりも、ずっと自分はだらしないと思うから、後ろめたさや恥ずかしさが常に付き纏う。
ところが気がつくと、いつのまにか世間が、自分の通った道を追いかけるように、だらしなく変わっていく。
だから、世間に生じる新しい問題が、ケガの巧妙のように他に先んじて見え、意識されてしまうところがある(ような気がする)。


長電話、テレビ漬け、サブカル漬け、モノへの執着、昼夜逆転、コンビニ依存、ネット依存、自意識過剰な自分語り、成熟を拒否した消費個人主義
街場の気楽な独り暮らしに憧れ、趣味に首まで耽溺し、心身ともに中毒してきた自分が、まっ先に望み、はまりこんだものだから、その時の後ろめたいような気分もなかなか消えない。
一度暮らしのタガが外れると、ずるずるとすべてにけじめが無くなり、何もかもが取り留めなく過ぎてしまうことの頼りなさ、寒々しさに心当たりがあるから、世の中が更にその先に進もうとするような変化を、ただ受け入れてしまうことを警戒もするし、新しい状況に無心に没入することが出来にくい。
どこかで「こんな暮らしは、まともではない特例だ」と自分を棚に上げて、世間のまともさに甘え、期待していたい。


他方、利便性に貪欲にまみれながら何かに夢中になっている人は、そのマイナスも込みで、何か豊かさを身に付けているという部分がある。
それを、一概に悪いとばかりは言えないし、人々の生活に根深く入り込んでいるだけに、外から単純には否定も断罪もできない。
ただ、世の中丸ごとの大きな趨勢である分、無意識、なし崩しに日常化してしまい、そこに自覚や葛藤が生まれにくく、負の側面が意識されないまま放置されてしまうことが多い。
そして、そうした環境が初めから「当たり前」な世代にとっては尚更、恥の自覚など生まれようがないだろう。それが怖い。
ただ、本来世間以上に自分が怠け者なのだから、何か言おうとする時、どうしても屈折した感情が混じる。


その辺り、星野さんは、ずっと深く状況に入り込んで熟考していて、立場が突き詰められ、言葉はすっきりとしている。
揺れと問題意識を維持しながら、能動的に流れにまみれ、渦中の人々との触れ合いながら、共感も違和感もたやすく流さず、時間をかけて考える。
そして、受け入れがたいものに対して、きっぱりと疑念を投げかけ、拒絶を表明する。
本当に尊敬すべき、素晴らしい仕事だと思う。


それが見上げるべき価値であることは間違いない。僕自身、そう思う。
けれど、それを誰もが(というより、まず自分が)目指すべきか?と考えた時、今度は逆の方向に躊躇してしまう。


人や物にまみれて生きるバイタリティは貴重だけれど、人にはキャパシティの違いがある。
それはそのまま幸福感、そして社会観、人間観の違いにもなる。
他者や社会との関わりをできるだけ淡く、最小限に、なるべく一人で(あるいは安心できる人と)静かに暮らしたい、という幸福もある。
外にはさまざまな問題もあるけれど、抵抗するのがしんどい。その力がない。
解決できないことを、意識しすぎると辛いから、自分の中でバランスを取って納得してしまいたい。
そういう生き方もある。
どんな生き方も一長一短があるように、当然そこには問題がある。
というよりも、これは単に小人の生き方であって、星野さんのような姿勢を心棒にした営為がなければ、社会は容易に淀んでしまうだろうとも思う。


けれど、同時にどこからか、世の中も自分も、そんなに容易く立派になれてたまるか、立派になってたまるかという邪念が、むくむくと湧いてくるのを抑えられない。
なんだか、キリの無い話でしんどいな、とも正直思う。
そして、だらしなくなかった昔にも、厳然と孤独も生き辛さもあった、という実感も一方にある。
負い目や恥の意識の欠けた人や、世間の在り方は嫌だし、ただ醜くはなりたくはない。
できる努力はしたいし、変われるものなら変えたい、変わりたい、変る時は変わらざるを得ないだろうとも、頭の半分では思う。
でも、最後の最後は「だらしなくてどこが悪い」とも思っていたい。


香港から帰って来た星野さんが、便利で綺麗で安全で、煩わしくなく暮らせるけれど、平坦過ぎて生きる目標や、自分の根とすべき差異が見いだせない、東京の風景への違和を語るのを読んで(『のりたまと煙突』所収「中央線の呪い」)、半分共感しつつもそう思った。
星野さんが大味だとか、そういうことでは全くなく、勝手にコンプレックスを刺激されつつ、やはり自分はぬけぬけと、ここへの煮え切らない愛着(愛憎)を語りたいと思った。


正直、近い世代でこんなに「五月蝿いこと」を書く人、それも頭でっかちな上から目線じゃなく、だらしない凡人にも共感を禁じ得ない、地に足の付いた言葉で自分を突き詰め語りかける人に、初めて出会った気がする。
意識すると生き辛くなる。けれど、意識することがタブーになり、目眩ましされたままでは息苦しい。便利な答えも解決もないことを、痛みとバランスの中で問い、考える続ける営為。それを、文学というのだと自分は思う。
星野さんに恥ずかしくない仕事を、少しでも投げ返せたらと思う。

銭湯の女神 (文春文庫)

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のりたまと煙突 (文春文庫)

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