山田太一『空也上人がいた』


優柔不断な性質に加えて、普段から世の中との関係や縛りが淡い、無責任で個人的な生き方を選んできたから、いつだってそうだと言えばそうなのだが、今のように世の中に中途半端な危機感があると特に、周囲を気にして軽薄に格好の良いことを言い過ぎているのではないか、あるいは、克己発展の可能性としんどさに端から逃げを打って、臆病、怠惰に開き直っているのではないかと、無駄に逡巡ばかり繰り返している気がする。
こうしたことを吐露すること自体すでに言い訳がましいのだけれど、やはり、自分がどこから物を言っているのか、自己申告といえども一言明示しておかなければ、嘘っぽくて落ち着かないので仕方がない。


こんな時、「こうだ」と定義した途端に嘘になってしまいそうな、人の内心の揺れや微妙な襞を見つめながらも、くだけ過ぎず崩しすぎない、むしろ硬く引き締まった記述に収めて行こうとするような、山田太一の文章の独特の緊張感は、清々しく気持ちに響く。
取り留めのない内心や現実をそのままにせず、多少無理にでも形に収め、定着させようとすることで、却って生々しい揺れが意識されもする。
一方に振り切れて目を瞑ることが孕む独善や傲慢を戒めながら、他方で限度や厳しい選択を受け止めないことのだらしなさを恥じる。
選ぶことと疑うことを往復する絶え間ない緊張感に、共感し勇気づけられると共に、背筋が伸びる思いがする。


9年ぶりの、そして77歳になる著者本人によれば最後になるという小説は、20代の青年ヘルパー、40代の女性ケア・マネージャー、そして独居の80歳老人男性といった、現在の陽の当たりにくい市井の人々を描く、山田太一らしい視点による物語。いわゆる社会派的に、外部の問題をクローズアップし、外に敵や救いを見い出すのではなく、あくまで偶々ある条件を抱えて生きる人々の、個人的な交わりや葛藤のドラマとして差しだすやり方もまた、とても山田太一らしい。


構成のしっかりした、展開の意外性に驚くことが重要なタイプの小説なので、具体的な内容にはなるべく触れないようにしたいが、とにかく「こうでもあり、ああでもある」という人の本音や現実の諸相を、それぞれの人物の刻々の心境に託して、誤解や擦れ違いをドラマにしていく手際が素晴らしい。そしてそれが、単なる手段に終わっていない。
各々が、自分の本音や経験の中にあるマイナス材料を、よく分からない相手に投影し、勝手に怒ったり怯えたり、理解したつもりで錯覚していたりする。自分のような者ならば、交わることのない内心の思いや、現実の中の孤独な空回りを、取り留めのない苛立ちや淋しさとして、諦観と共に私小説的に綴ってしまいそうな話を、ある人間の少し突飛な(そして乱暴すれすれのお節介な)行動によって交わらせ、不安や葛藤を具体的にしていく。確かに多少強引かもしれないが、一方で「無い」とタカを括ってしまうことに、自己撞着の欺瞞は無いか? 一歩でも自分から踏み出そうとしていないだけなのではないか? という挑発を感じる。


弱く小さな人間の中にも確かに在る、「他人の運命に関与したい」という欲望を、山田太一は繰り返し描く。
そしてそれを、必ずしも「良いこと」だとは言わない。
むしろ、人が誰かに関与し、生きていくことが避けがたく孕む「罪」や「恥ずかしさ」や「痛み」をクローズアップする。
(だから、というか、この小説でも個人的な恋愛感情が、登場人物たちを動かす動機になり、各々の生身の欲望や、その限界を際立たせる)
どんなふうに生きようが生きまいが、必ず付きまとってくる、取り返しのつかなさや後悔を描く。

ツツジの花を摘む母子が異様だった。
女の子が今はもう花をむしるのにためらいがなく、笑い声をあげながら白い花、赤い花をどしどしむしりとって母の方へ投げていた。母は地面に落ちる花々を拾って買い物袋に入れながら、はしゃぐように笑っていた。笑い声が明るく高いので、吉崎さんもその方を見た。いいのか、あんなことをしていいのか、と私はすぐ思った。いくら溢れるように咲いているからといって公共の花じゃないか、と。
吉崎さんを見ると、笑顔だった。笑顔どころか、小さく声が漏れて笑っていた。まるで幼児の祖父のように。
え? 楽しいか? あんな非常識が可愛いか? 幼児がはしゃいで踊るように足踏みをした。それから両手を高くあげて怪獣のように花を襲った。両手がいくつかの花をむしりとると石でも投げるように母に向けてほうった。母はいくらもとばない花びらを両手ばらばらに掴もうとして地面に膝をついて笑った。
それからやっと私は全身で楽しんでいる女の子の可愛さが分かった。母親の喜びも素直に胸に届いた。同時に「公共の花」などと思った自分の貧しさにも気づいたが、同じくらいただ笑っている吉崎さんにも違和感があった。
幼児と一緒に、生きていることをただ肯定しているような老人の笑顔に、われながら不当だと思うような嫌悪が湧いた。
(P47〜48)


この場面を読んでいて、安吾の『桜の森の満開の下』を連想した。
山田太一安吾のようには、残酷を孕む人の(そしてこの世界の)生命力を、きっぱりと肯定ばかりはできない。
無邪気な欲望を眩しく見つめながら、取り留めの無さをおぞましくも思い、傲慢さに嫌悪も感じる。
そうした、グレーな気分を手放さない。
そして、自信よりも疑い、人生の可能性や快楽よりも、限界や哀しみをクローズアップし、意識させようとしているところがあると思う。
少し大袈裟な言葉を使えば、彼は現代の人々の心に「原罪」を意識させ、傷として刻みつけたいのではないか(と言うと、やはり少し大仰か。「掬い取って提示する」くらいのニュアンスだろうか…)。


有機的で濃密な共同体が失われ、それぞれが個人的に、淋しく生きている登場人物たちは、それでも自分の人生に負い目や後悔を抱えている。
山田太一は、それに良い悪いを言わないが、許し、解消し、ただ負担を軽くしようとはしない。
むしろ、痛みを浮かび上がらせ、意識させる。
各々は、固有の負い目に縛られた、自分の意識を通してしか他者や現実を見られないから、度々誤解しあうし、すれちがう。
けれど、小説はそうした孤独を、この世の無常、理不尽を、ただ絶望として投げ出すこともしない。
むしろ、負い目や後悔を隠し持っているからこそ、それぞれが孤独だからこそ、それを媒介にして、瞬間つながることが出来る。
原罪意識を軸にして、自分を律し、他者を許そうとする気持ちも持てる。
そんな人々が、他者に関わりたいと思い、生き続けること、孤独なまま共に歩こうとすることを肯定しようとする。
作者は、何よりそうした人々を好きだし、孤独や負い目への向き合い方、受け止め方(というほど、大袈裟な差し出し方は決してしないが)の中にこそ美しさを見いだし、幸福とはそういうものなのだと信じているのだと思う。


しかし、ここ何十年かの豊かになった日本においては、こうした価値観は旗色が悪かった。
人の無力も、世の無常も理不尽もわかってはいるが、そんな暗いことは目に入れたくない。意識したくない。
科学や社会制度の進歩によって、人生の不合理や人間関係の負の部分を小さくすることに希望を見ようとし、それでもいよいよ逃げられなくなるまでは、目をそむけていたい。
どうせ罪も罰もないならば、できるだけ好き勝手に、気ままに暮らしたい。
そして、出来れば最後まで逃げ切ってしまいたい。
若いうちほど、尚更そう思う。
そうでなければ、自分の欲望の正当さを理論武装する(あるいは、裏返った形で、ニヒリズムに立て籠もってしまう)。
表現にも快楽と、それを後ろ立て、後ろめたさを処理してくれる思想を求める。
自分自身、多かれ少なかれそうだったことを否定できない。
この小説を読んでいても、各々のしたことや後悔の内容が、決して些細だとは思わないが、それに対する痛みの持ち方は、随分慎ましくて生真面目なものだとは感じた(多くの人間は、もっとずうずうしいのではないかとも)。
比べて自分は、怠惰や臆病から、できたかもしれないことをやらなかったり、また、今よりずっと楽観的で恐いもの知らずだった(どうせみんなそうなんだとタカを括っていた)若い頃は、隣人を傷つけることを含め欲望を無造作にむさぼることに、ずっと楽観的に居直っていた(敬愛する或る作家が「人はずうずうしいか、おずおずとずうずうしいかのどちらかだ」という意味のことを書いていて、強く共感したことがあるが、本当は今だって、当時との違いなど程度問題でしかないと思う)。
齢を重ねて、人の人生や生き死にに直に関わるようなことがあっても、案外とずうずうしくすぐに日常に戻ってしまう。
せっかく出会えた、共感しあえる優しい隣人のことも、平気で値踏みし、高望みしてしまう。
けれど、ふと見てしまう昔の夢のように、思わぬ時に後悔に苛まれていることに気づいて、人の気持ちというのはケリもつかなければ自由にもならないなどと、時折普段の軽薄ぶりを棚に上げて嘆いたりもする。
そして、万事にまったくケリがつかないまま、世が移ろい、人が消え、記憶が薄れて、すべてが無に帰してしまう事を、今更、虚しくなったり恐ろしくなったりしている。
何か、生き方に筋や歯止めを持たなければ、すべてに意味が失われ、虚しくなる。すべてが無になる(無だとさえ意識しなくなる)。それは嫌だという寂しさだけは、呑み込みきれないでいる。
(だから、『ありふれた奇跡』で繰り返されていた、「人生ケリのつかないことの方が多いんだから、ケリのつくことはちゃんとつけておくの」というセリフが、やけに胸に刺さって辛かった)
そんな時、自責の意識を手放さず、それを手がかりに身を律しようとすることは、たとえそうしきれずとも、限界はあっても、(特に自分のように怠惰でいい加減な人間は、限界を意識することで、他者に寛容になろうとすることも含めて)人やこの世への共感や信頼の糸口として、とても儚く危ういものながら、それでも「これしかない」大切なものだとも思える。
自分が、この小説から受け取ったものは何より、そうした無為無常に対する、作者と登場人物たちのあくまで慎み深い受容と抵抗(ここでは、この二語は対義語じゃない)であり、そこに惹かれ、共感せずにはいられなかった。


空也上人がいた (朝日新聞出版特別書き下ろし作品)

空也上人がいた (朝日新聞出版特別書き下ろし作品)