迷いや混乱に耐えるべき時

このところ、尾崎豊の初期の4枚をよく聴いている。この頃までの彼を嫌いになったことは無いけれど、日常的に当たり前に聴くようになったのは高校生の頃以来だと思う。当時はあてどないヘビーな気持ちを重ねるように、他によすがが無くしがみつくように聴いていたけれど、今はまだ人生の重量が足りない中で、人間の善性に期待し信じて、手がかり無く素手で考えている様子が切なくもあり、可愛くもあり。
特に、デビューしてからツアー中に思索し、バンドと音を練っていった曲が並ぶ『壊れた扉から』は、日常の風景の中で感じ考えていることそのものが歌われていて、いわゆる十代の反抗とか、メッセージソングというイメージから遠い。だから当時、それについて掘り下げて語るような批評を読んだことが無いし、実際当初は最初の2枚ほど売れなかった。けれど僕は、「ドライビングオールナイト」「フリーズムーン」「ドーナツショップ」、それらが結晶したような当時の新曲「路上のルール」といった曲たちがとても好きだ。学生時代の具体的近過去を回想する、ある意味安定した曲の多かった前作『回帰線』よりも、現在進行形の思索と心の揺れそのものが歌われるこのアルバムが好きだった。ツアーバンド、ハートオブクラクションと共に作った、現在を呼吸しているような音の熱気も含めて。
こういう思索や内省を歌った日本のロックは、今に致るまで本当に少ない(初期の宇多田ヒカルが「ウエイト&シー~リスク」「フォーユー」といった曲を発表した時、強く胸に刺さったのは、そうした現在進行形の揺れる切実さを歌う人に、久し振りに出会ったからだったと思う)。感情の放散や、既に固まった主張を歌う歌はいくらでも溢れているが、そう感じていいのか、それをどう思えばいいのかと考え揺れていることそのものを歌う歌は本当に少ない。そうした不安定さを切実に抱え続ける者も、それを引き受けられる者(引き受けようとする者)も、滅多にはいないからだ。すぐにありものの結論に振り切れたり、縋ったりしてしまう。
今、喧しくいわれる政治的な主張を僕が嫌いなのは、内容の正否以前に、そうした不確かさに耐えて揺れ、迷うことに耐えられず逃げた、結論先にありきの怠惰が嫌だからだ。更に、まだ僕らの現実の中で試されず実感もされていない、当面の答えさえ出ていない概念を、さも既に常識や正解であるかのように上から押し付けてくる傲慢さに腹が立つからだ。説明し、納得を得ようという誠意がまったく欠けているからだ。
安定は、人を無意識に排他的にする。人も社会も不確かで、迷い混乱すべき時には、簡単に便利な答えがあるなどと思わず、不安定に耐えて誠実に考えるべきだと思う。