色川武大『文体についてかどうか分からない』について


この文章は、ワタナbシンゴさんhttp://twitter.com/shanti_aghylとのツイッターでの会話と、荻原魚雷さんのブログの文章「文壇高円寺 - 文化の基盤」http://gyorai.blogspot.com/ に触発される形で、半ば返信として書きました。
お二人の力を借りて、もやもや漠然と考えていたことが、取り敢えず形になった気がする。

「ひとつの、というより私の視点で、事物を眺めて見ると、大いそぎでそれを打ち消してみたくなる。考えてみると、私の視点といっても、それは比較的効果のある場所に固定し代表させただけのことで、他にないというわけではないし、それから、私の視点以外の場所も走り狂うように飛び廻らなければ、執着に付随する万般のものを逃がしてしまうぞという気にもなる。」
「といって突き崩していって、自分の眼を失ってしまえば、よりどころがなくなってしまう。」


「しかしながら、少しずつでも仕事を再開したについては、また別の考えも少し湧いてきているからである。叙述のありかたについては前述のところを一歩も出ないので、蟻地獄に入ったようなものであるが、もう少しやさしい地点(かどうかはわからぬが)で読み手と架け橋を作ることもやってみようと思い立った。」


「考えてみると、今までは、自分の方へ、或いは叙述の方へ、読み手を巻きこもうとしすぎたような気がする。そうであるかぎり、事物に一定の意味を定着させて記すのならべつだが、私の力では蟻地獄におちこまざるをえないので、自分の関心に他人を参加させようとすることを、一応、やめてみよう。その点では気楽になってみよう。そのかわり、何を記すかというと、自分の中の真摯な部分を記してみよう。たったひとつ、真摯なものが、相手に伝わるような形をつくることにポイントをおいてみよう。」


「何に対して真摯になるか、とか、真摯になるためにどういう手順を踏んだか、とか、真摯さがどういう値打ちがあるか、とか、そんなことはすべて記す目的にはいらない。そこで読み手の共感を得られなくてもすこしもかまわないので、だから、叙述のありかた、乃至筋道にこだわることはない。」
「ただし、まがいものでない真摯さが、伝わるようなものでなければならない。」


「私の日常がいいかげんであるように、読み手の日常も、いろいろの条件によっていいかげんであるのにちがいないので、けれども、いいかげんでないものは人の故郷であり、折り折りに、それぞれの故郷へ回帰したいと願っている。」
「書物は、読み手それぞれにそのきっかけを与えることによって、一応の役割を果たすのではないか。」
「記述されている事柄自体に値打ちをつけることなど、巨人以外にもうできないのではあるまいか。」


『文体についてかどうか分からない』色川武大


色川武大の抽象的な文章は、ここでもその傾向が見られるように、現実の大きく重層的な広がりを正確に、平易な言葉と端的な言い回しで捕まえようとするために、却って輪郭がぼやけてしまうということがある。
この文章でも、「意味」とか「真摯」といった言葉の定義が独特でかつ広く、自分が正確に彼の言わんとすることを掴めているかどうかは怪しい。


ただ、(僕と彼の間には、志の高さにも、達成した技術にも、それこそ天と地の差があるけれども)こうした「数えきれないものを全部見ようとしてしまう」取り留めのなさ、「そうじゃなければ不正確になり、嘘になってしまう」という切迫感の在り方には物凄く心当たりがあり、特にシンプルで伝わりやすい文章を書こうとした時、いつも大きな問題点として浮かび上がってくるので、他人事でない気持ちがする。
そして、この纏まらない苦しさ自体から伝わる、彼の言う「真摯さ」に勝手に共感し、慰められている。


僕は、「田舎に根付いていない田舎者」という出自で、所与の場に属し、それを心から信じるという体験があまり無い。
かといって、そこでの体験や実感を切り捨てて、机上の文化(的正論や自由さ)を、(一方で憧れながら)アイデンティティにもできないできた。
そうした足場の不安定さもあって、何につけ、「これはこれだ」と開き直れず、自分の思い入れをまず疑ってかかる(という形で自己防御し、バランスを取ろうとする)くせがある。
けれど、それが過ぎると、取り敢えずの自分の足場が持てずに、身動きできなくなってしまう。


かといって、その場、その時の状況に、調子よくハマり波乗りしていくということにも、強い抵抗を感じる。
自分の物の感じ方や行動の仕方は何なのか、上手下手だけでなく、それにはどういう意味があり、どう位置付けられるものなのかを知りたいという思いが強い。
何かを真に受けたい、信じたいという気持ちが強いのだと思う。


それを「弱さだ」「依存心だ」と否定する通念に、怯えたり、反発しながらやってきた。
自分の素の感じ方や、愛情の対象を、否定されそうで素直に表に出せない。
通念(それはしばしば表向き、「少数派」「カウンター」の立場とされているものであることも多い)に否定され、抑圧されているという意識も強いから、物心ついてからは、いかに自分の思いを意味で補強し、通念をひっくり返すか、或いは風穴を開けるかに、一所懸命になっていたところもある。
けれど、そうして自分の一方の思いを固め、強調すると、他方に存在している別の思いに目をつむり、押し潰してしまっているような居心地の悪さが出てくる。


だから、色川さんの「真摯さだけを記そうとする」という姿勢には物凄く共感するし、事実自分もだんだんこういう姿勢に近づいてきている気がする。
けれど他方で、色川さんに比べて、自分はまだ全然「諦め」が足りないなと思う。
「何が良いことなのかを知りたい」「世の中を(あるいは自分の生き方を)良いものに変えたい」という、最初の動機が諦められない。
勢い、「真摯」や「故郷」の普遍的な意味を問い、求めたくなってしまう。
だから、時に強引で一面的になり、時に輪郭がぼやけ、纏まらない。


仮に、色川さんのように、「自分の関心に他人を参加させようとすることを、一応やめて」みたとしても、どこまでやれば、真摯と呼べるのかという自分の中の問いは、どうしたって永遠に残る。
それは、外から定量化することなど出来ない代り、同時に、個々の読み手に響くかどうか、彼らの実感によって厳しく裁定されることは免れない。


また、色川さんがこの文章を書いた時期と現在とを比較した時、個人があまりにも最初から個人になりすぎてしまって、あまりにも「執着に付随する万般のもの」から切り離されてしまっているという変化があると思う。
その結果、すべてが趣味嗜好の問題になってしまって、意識が個人にばらけている割に、書く人間のタイプは「程の良いマイナー」に一律になる。そうでなければ、真摯を数量的なエビデンスで代替して客観、俯瞰の視点を奪い合い、机上の綿密さで互いを斬る争いを続けるようなことになる。
まあ、これは状況に対する一般論だけれど、各々が自分の故郷に完結して安定していたり、あるいは故郷を否定し、あるいは軽くしてフラットに数値化してしまおうという動きの中では、愛憎入り混じった不安定な言葉が、どこにも届いていかないという怖れを、今の自分が強く感じていることも確かだ。


しかし、故郷というのはつまり、齢を経て良くも悪くも実感する、良いも悪いも含めた執着とか偏りのことで、若者にそれが無かったり、あってもそこから遠ざかろうとする方向に重心が傾くことは当たり前だ。また、その遠心力の中で、故郷への意識も視点や輪郭を与えられ、厚みを増す。
ただ、問題なのはやはり、現在では遠ざかったらそのままで(あるいは、はじめから遠ざかる必要もなく)、思いたいように思い(あるいはわざわざ「思いたい」と思うほど、他者との距離や葛藤を意識しないまま)、自分と他者とを止揚する成熟への道筋が無くなってしまっている(そして、その必要が意識されなくなってしまっている)ことだ。そのための場であり、重しとしての、共同体とかスタンダードな教養というものが解体されてしまっているから。
だから僕(達)は、その重しに対して、敢えて自分の特殊さを特殊さとして引き受けるという立場に、色川さんのようには集中しきれない。


僕たちは一方で、一度色川さんが保留した「数えきれないものを数える」試みを再開し、また他方で(あるいはそれがとことん煮詰まった先に)それに区切りを付ける重しとしての共同体やスタンダードを、不完全で、きりがないことだと知りながら、模索しなければならないのだと思う。
そして、(大袈裟な言い方になって恥ずかしいけれど)その終りのない円環を引き受ける姿勢そのものが、真摯さとして鍛えられ、個々を繋ぐ信頼へと育てられたら、と思う。

関連
帰省覚え書き
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20090227
不良中年とキリスト
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20090307