ヒューマニズムに縋らない優しさ

阿佐田哲也さんは、神様ではあったが、恐れおおい神様ではなく暖かく、気のおけない神様であった。
この国で指折りの私小説色川武大として知られるようになってからも、以前とまるで変らず、「文豪」によくみられる緊張感を他人にまるで感じさせなかった。
ある時、当時の人気作家と対談することになった。予定の時間より前に色川さんは会場に到着したが、人気作家の方は来ない。
心配した編集者が電話すると、車が迎えに来なかったからだという。
やがて、不機嫌そうな顔の人気作家が四、五十分遅れてやってきて色川さんとの対談は終わった。
著名な人気作家であることをのぞけば、年令も、文学者としても色川さんの方がはるかに先輩なのである。
だが終始にこやかに、何事もなかったようになごやかな表情を崩さぬ色川さんに同席した仲間たちは心を打たれた。
それからしばらくして、私は色川さんの書斎を訪ねて、ふとこんな質問をした。
「あなたは、どうしてそんなにやさしいのですか?」
色川さんはびっくりしたような顔をした。
そして暫く遠くの方をみながら黙っていたが、やがてポツリと云った。
「…私は少しもやさしい人ではないのです。しかし…もし、そうあなたに見えるとするなら…多分、私が人を信じていないためなのかも知れません…」
人は誰でも、他人を信じることから人との関わりを始める。信じられぬ相手だとはじめから判っていたら友人にはなれないからである。
だが信じていた相手が自分の思うように動いてくれなかったりすると、裏切られた気持ちになったり、怒ったり、恨んだり、憎んだりするものである。(…)色川さんは、集りくる人々をつき放すことをしなかった。人々との関わりがどうしてもわずらわしくなると自ら離れていった。離れたところにまた人が集まると、それを拒絶することはせずに、何とかまたひとりになることを考え続けていた」
ばばこういち「人を信じないやさしさ」

人を善なるもの(であるべき)だと信じ込んでいると、他者への要求が大きくなるし、自分が必ずしも善で無いことを、何らかの名分で合理化する必要も出てきてしまう。
人を悪なるものだと考えて(認めて)、それでもなるべく人を許し、優しくしたいと個人の思いとして願う方が、他者に対して寛容、寛大になりやすい。
僕は、色川さんのように本当に寛大なわけでも、優しいわけでもないから、人の欺瞞にしょっちゅう腹を立てているけれど、それはあくまで僕の望みでしかないという認識を手放さないことを、殆ど唯一の倫理のように思ってもいる。
人が善なるものだという前提を梃子でも手放さず、したがって善人(ヒューマニスト)としての名分を持って、不都合な他者を責め、裁かずにはいられない左翼、進歩派の人々と(そして、日本的世間の住人の感覚とも)、どうしても自分が相容れない一点も、ここだと思う。