今も変わらず(情報)バブルは真っ盛り

「泰山鳴動して鼠一匹も出ず。それじゃあみっともないと思ったのか、最近は予想屋みたいな存在があまり出てこない。インテリも、奇妙に黙っている。ちょっと不安そうなのは、街の中のひと握りの人たちである。
実をいうと、私も、そろそろ機が熟してきたのかもしれないな、と思っている。
私は易者じゃないし、超能力もない。そういうことにほとんど興味がない。だから一人で呟いてみるだけで、誰もきいてくれなくたっていい。それに私自身が、だからといって防備態勢を作っているわけでもない。
その一方で、故意にそういう顔をしているのかどうか、なんだか有頂天になっているように、楽天的な人たちもいる」

「こんなことは異常中の異常で、物の値打ちが実質的にハネあがっているわけではない。すべては思惑だけで、つまり、ババ抜きをやっているようなものだ。大方の勝負師はカードをやったりとったりしていって、途中でアガっていくが、最後にババを持ってしまう人がどうしても出てくるものである。トランプのババ抜きとちがって、それは一人とは限らない。弱い者は皆、ババを握って置き去りにされるのだ。
ババ抜きゲームも、すでに山場をすぎた感じである。もうこれからは、表面には見えないが、ババをめぐっての熾烈な争いが残っているだけなのである。トランプとちがって、実世間手順を踏まないから、ある日突然、手の中のカードがババと化すのである。
(…)企業がそうだ。企業なんてものはまず第一にイメージ戦争なのだ。株価はイメージによる思惑にすぎない。ここでもババ抜きゲームがおこなわれている」

「いつでもなかなか醒めている連中がいて、ババ抜きゲームを興趣ゆたかに盛大にさせ、自分たちはいつのまにかあがって、墓場を敗者たちに残していく。株では、今までいつも大衆がこの役割をさせられてきた。
比較的健康な時代は、物の値打ちと人々の概念が、わりにひっついているものだ。それがだんだん回転が速くなって、イメージ戦争になり、ヒステリー状態に達する。そこで神の摂理のように、ドシーン、が来て、スタートに戻る」
色川武大「ババを握りしめないで」

昨夜、BSのモロッコのジャジューカの特番を見ようと待機していて、世界サブカルチャー史の日本80年代編が目に入ってしまった。相変わらず、客観的な事実なのか、主観的な見立てや願望なのかをわざと曖昧にする語り口が不愉快な番組だが、バブル期のひたすら差違のイメージを氾濫させて人々を煽り、遅れまいとより極端に自分を先鋭化させて、だんだん何をやってるのかわからなくなってくる、何が現実か、何が欲しいのか、何が自分にとって切実なのかがわかるなくループは、一見逆向きの世相に見える今もまったく同じなのだなと思った。そして、その渦中にいる時は、誰も今の問題に気付けないことも同じだ。或いは薄々問題に気付いてはいても、破綻が今すぐに来るわけでは無いだろうと、目の前の世相、欲や快感や勝敗から降りられない。曖昧なイメージとしてしか把握できない現実を、わからないと言えない。後になっても「あの時はわからなかった。わかりたくなかった」と自分のこととして言えない。
バブルといえば、僕はまず下の色川武大の言葉を思い出すが、この呟くような警句のように、当時の若い自分が現実を認識できたわけではなかった。浮ついた濁流の底で、当時は殆ど誰にも届いていなかったと思う。
しかし、今も本当は状況はいくらも変わりはしない。イメージ戦争で動く世の中では、政治も場当たりな願望を投影して群れる為の趣味のようなものだ。