「趣味人間」の問題

やはり、表現や情報商品を受容したり、批評したりすることだけが自己目的化しているマニアとかオタク(それはもう、一部の人を指す言葉ではなく、アイデンティティが消費者としての自分になっている現代人一般の基本姿勢のようになっている…)というのは、隣人としては度し難いものだと感じる。ただ見て感じるばかりで、では自分がどう生きるか?ということが棚上げされっ放しだから、交渉しようがない。
目の前の人間に、現にどういう態度を取っているのかにまるで向き合うことなく、ひたすらマンガや音楽の消費と批評だけを続けている友人に、正直取り付く縞なく暗澹としている。

昔、家族に向き合わない「仕事人間」という言葉が批判的によく云われたけれど、「趣味人間」だって相当に問題を孕んでると思う。
何だって大義名分が付きすぎると、人を開き直らせ過ぎて、閉ざしてしまうところがある。
何かが完全によくて、何かが完全に悪いなんてことは無いよ。

 

「A嬢はまず自分の日常をなめて、恣意的なものにした。自分一人の生活の中では特に破綻はおこらぬし、個性的にも見えたであろう。その点では私も大同小異だ。しかし他人の日常に入る折りに、感性をいったん原則に押し戻さなかったために、自分のと同じく私の日常をもなめることになった。その方向があぶない。そうして彼女の教養や志向するものと、日常次元を切り離して考えているために、どちらが大動脈で、どちらが末梢血管か錯誤してしまうようなことになっている」
色川武大「養女の日常」