ロッキー・ザ・ファイナル(2)


しかし、「ファイナル」公開に合わせた特集なんかを観ていると、「第一作は傑作だったが、その後は蛇足」とか、「アメリカの代紋を背負った硬直化した展開」といったまとめ方が本当に目立つ。まったく、「あんたらまともに映画を観ずに、イメージで物言ってるだろ!」と言いたくなる。
たしかにロッキーはもともと、知的でもヒップでもないから、成功した後は目標を見失い、金を持っても使い方は知らず、バブリーなハリボテみたいな醜態をさらしたりもする。けれど、そうした迷走自体が、基本的には状況に対して受け身で染まりやすい庶民が半端な豊かさを身につけていった7,80年代の年代記として、優等生的な模範解答を言おうとする多くの映画の小賢しさよりも、ずっとリアルな記録たりえていると思う(そのあたり、毀誉褒貶の在り方も含めて、日本の宇宙戦艦ヤマトシリーズに凄く似てると思う)。
人間、いつでも時代や状況から独立して、超然としていられるわけがない。ロッキーのようなアメリカの(歴史の無さゆえの)無邪気と童心と楽観性を体現したような人物なら尚更のこと(それが、戦争を挟んで歴史をリセットし、その時々の時勢の色に染まりながら転がってきた、我々の心にも響くのだとも思う)。
人生は映画のように綺麗には完結せず、なし崩しのように変わり続ける世の中に染まったり、取り残されたりしながらも、生き延びてしまう...というのが、大方の人に妥当な認識だと思う。
ロッキーシリーズは、アメリカンニューシネマのような反上昇志向としての等身大よりももっと広い意味で、不確かで恰好の付かない人生を生きる人間達への親愛を、身近に体感させてくれる映画だった。


2は最初から、すでにある成功とファンの愛情が前提になっているので、どうしても緊張感を失って、手前味噌で間延びした話になりがちだったけど、趣味の悪い虎柄ジャンパーを着て、高級車を危なっかしく乗りまわし、香水のCMをクビになって借金を抱えたりするバカっぷりは生々しくて良かった。


3は、第一作に次ぐ傑作。2より更にロッキーは成金状態に馴染んでしまい、偉そうなスーツを着てポーリーに説教をし、テーマパークみたいな練習場に観客を入れてビジネスやイメージアップに励んだりしているうちに、若く野心に燃えた挑戦者(特攻野郎AチームのミスターT)に打ちのめされ、ミッキーは失意の中で死んで行く。
そんなロッキーを励まし手を差し伸べるのは、かつてのライバルだったアポロ。彼は無名時代を過したスラムのジムで、自分の「蝶のように舞い、蜂のように刺す」ファイトスタイルをロッキーに伝授しようとするが、体が固くてリズム感がない、最近で言えば坂本みたいに正面からの打撃戦ばかりをやっていたロッキーにはなかなか身につかない。ますます自信とやる気を失って、つい本音をポロリ。「怖いんだよ、今まで得てきたものを失ってしまうことが!」
その時ロッキーを救うのは、一方で最高のラブストーリーでもあるシリーズのもう一人の主役エイドリアンの一言。
「全力を尽くせばそれでいいじゃない」
「全力を尽くして負けたらどうするんだ!?」
「負けは負けよ。その事実を受けいれて生きていけばいい。それだけよ。」
「君は強い女だなァ...」
そして初心を取り戻したロッキーは、猛烈なトレーニングを開始。
それまでの水ぶくれぶりと墜落がいい重石になって、第一作に並ぶ高揚感。
試合に勝ち、いつものストップモーションの後、アポロとのスパーリングで締めるラストも心憎かった。


ボクシングに取り付かれ、ピークを過ぎ、一時の成功を通り越しても、やはり腕っ節ひとつ、体1つで人生に対峙するやり方を信じ続ける2人の友情に感動したからこそ、安易なお涙頂戴のダシに、旧ソ連のサイボーグボクサードルフ・ラングレンにアポロを殺させてしまった4だけは、正直今でも許せないでいる。
それでも、敢えて言うならそうした愚かささえ、そんなスタローンを馬鹿にしてリベラルぶった模範解答を軽々と口にするような連中のしたり顔に較べれば、失敗ぶりがずっと正直で人間らしいとも思っている。


80年代のマッチョヒーローの代表としてハリウッドを席巻した後、一転今度はその空っぽさや熱血浪花節体質のダサ坊加減が嘲笑の対象となり、一気にスタローンの人気が凋落していた時期に作られた、かつて脱出した古巣のスラムに出戻っていくロッキーを描いた5。
監督や主だったスタッフを元に戻しても、時間とマジックだけは取り戻せなかったし、個人的には愛弟子を悪者にした家族愛なんてところに落とさず、新しい小さな夢と絆の物語を見せて欲しかったけど、相変わらず楽天的な間抜けで、商売も父親ぶりもガタガタ、でも憎めないおらが街のヒーローって雰囲気は悪くなかった。


そしてファイナル。
ロッキーは街の料理屋を経営し、客に昔話を聞かせたりしながら静かな余生を送っている。
第一作で、不良とたむろしてるところを説教して逆にくそったれ呼ばわりされたスラム街の少女マリーと再会し、今ではシングルマザーになって疲れた顔を見せる彼女を励ましたり、彼女に汚い言葉を投げつける不良少年達の前に立ちはだかったりする気骨は残っているが、そんな彼の内実は、エイドリアンに先立たれた空虚さから立ち直れないまま、過去の思い出とマリーに向かって吐く自分の励ましの言葉にすがってやっと立っているような状態。
一人息子は、有名人の子供であることのプレッシャーとコンプレックスで、卑屈なヤッピーみたいになってしまっている。
そうした現状を乗り越える手段として、やはりロッキーにはこれまでのように、体1つでの挑戦をするという方法を選ぶが、スタローンがリアルに老いてしまっているために、どうしてもこの選択が現実的な希望として伝わってこない。
ドラマにほとんど起伏がないままに、やたら饒舌に人生を語り続けるロッキーもらしくない。キャメラにブルーのフィルターをかけたようなぼーっと青白い画面が、熱や一体感を終始冷まし続け、一層静かな老いと空虚な心象風景だけを際立たせる(それにしても、空き地にぼーっと青白くライトだけが灯っているような、フィラデルフィアの街の存在感のなさはどうしたことか...)。
しかし、そんなちぐはぐな居心地の悪ささえ、最終的に、どこかスタローン...いや、ロッキーらしい。
彼の空虚や孤独なら、それは俺達自身のものでもある、最後まで付き合いたい、と思わせる。
恰好の付かないまま流転する一人の人間への親愛を、暗闇の中でたくさんの人たちと共有していることを、本当にかけがえなく思う。
あと3回は劇場に行くつもりだ。