追記

2回目を観てきた。


ゴメン。
前回は観る前にテンパリ過ぎて、かなり観方にバイアスがかかっちゃってたみたい。


フィラデルフィアの街の変化も、ロッキーたちの老いと孤独も、最小限のシーンで自然に伝わるよう巧く撮られていた。過去の思い出にひたるロッキーに対するポーリーのセリフも良い。


が、やはり映画としては構成にもメッセージにも無理はたくさんある。
というか、はっきり根幹が無理からはじまっていると言うべきか。
ライセンス発行を渋るボクシング協会に対するロッキーの演説も、若者が言っているならまだしも、60歳の男のセリフとしては相当にエゴイスティックだし、卑屈になり自分の不甲斐なさを偉大な父を持ってしまった境遇のせいにしてイジケている息子への説教も、現に能力を持たない弱い人間にはキビシイものだと思う。
マリーからのロッキーへの励ましの言葉も実在感が無いというか、ほとんど彼女の口を借りたスタローン自身の言葉にしか聞こえない。
人間誰しもいつかは齢をとるし、愛する者を失う。そうした人生の終わりを、穏当に受け入れようとするのでなく、こうしたエゴイスティックなやり方を押し通そうとするのは、やはり正しくは無いと思うし、これまでの生き方が通用しない局面が訪れた時の対処の仕方としても、ただ意地と勇気でぶつかるという精神論を押し通すことが前向きだとは思えない。


なのに、こうした強引な独りよがりと手前味噌に、現にいちいち感動し、涙を流している自分がいる。


ロッキーの、自分の人生の結果としての現在に対する空虚が、リアルに伝わってきたことも大きい。
それは、現在を生きる我々の、何となくすべてが下り坂で、一人一人がバラバラな、そして未来へと続く一筋の流れが信じられず、共有も出来ない閉塞と、確かに響きあっている。
穏当に老いや終わりを受け入れるには、我々は脈絡と故郷を失いすぎている。
そんな、なしくずしの寂しさと閉塞に独りで立ち向かうには、こうした自己暗示やエゴの残り火を、無理にでも掻き立て、火を灯すしかない時は必ずある。


初めて観た時は、ロッキーに説得されたジュニアが結局父親についていく展開や、ロッキーに対する若いチャンピオンの描き方も、年寄りの無自覚なエゴが過ぎるんじゃないかとも思ったが、考えが変わった。
ヌルく寂しい閉塞に慣れてしまっている若い人も(そして、もちろんなし崩しの孤独の中に居る老人達も)、スタローン、いや、ロッキーの、信じる心を手放さない底なしの闘志に触れ、あてられてみた方がいい。


この映画はまごうことなきスタローンの俺節だ。
ここには、水面下でエクスキューズにまみれた昨今の「模範解答映画に何よりも欠けている、「恥をかいてもいい。笑われてもいい。これが俺の真実だ!」と想いの核心をまっすぐにぶつける、覚悟と潔さが確かにある。
だから、あんなにシンプルなストーリーとメッセージが、真に迫った描写で心の深いところに届く。


映画が最終的にエモーションの芸術だとすれば、『ロッキー・ザ・ファイナル』は確実に傑作だったと思う。