紡木たく12年ぶりの新作! 『マイガーデナー』(編書房)

bakuhatugoro2007-12-11



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http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-434-10674-3.html


一昨年、版元となった編書房のHP上の日記で、「紡木たくと新作の打ち合わせ中」との記事を読んで吃驚して以来、無理な期待をしないよう、でも、内心では心待ちにしていた12年ぶりの新作。
ホットロード』『瞬きもせず』といった彼女の代表作は、80年代当時の若者風俗を、読者と同じ体感を持って空気のようにマンガに描き込み、ほとんど現在のケータイ小説のように熱っぽく読まれていた。
けれど90年代以降、彼女の作風はリアルタイムの若者風俗から離れ、同時に、ストーリーを語るというよりは、自分にとっての、切実でローカルな記憶(特に子供時代の)を、美しい水彩の風景や、白い背景に断片的に書き込まれるネームによって、心象を体感的に描写するような、詩的傾向をより強くしていった。
作家性やテーマがより鮮明になった分、必然的に一般のとっつきはやや悪くなり、また「時代と寝た」作品を生んだ作家(しかも、いわゆる「言葉がない層」の思いを描写し、代弁したことから、自身のマイナーな個性を自負するような、いわゆるコアなマンガ読みや読書層からは強い反発もあった)ゆえ、読者が減っていくと共に、積極的に語られ、評価されることも少なくなっていった。
が、彼女自身は、そんな外野の事情などまったく意に介す様子もなく、自身のテーマをまっすぐに追い、描くべきことを描ききると共に、自然に消えていったように見えた。
風の噂では結婚して家庭に入られ、静かに暮らされているとのことだったし、もうマンガを描かれることはないんじゃないかと半分以上諦めていた。


だから、粘り強く彼女と交渉を続けてくれたらしい、この小さな版元には感謝の言葉もないけれど、それ以上に、どういった心境の変化と彼女なりの必然によって新作が描かれたのか、嫌が応にも興味を惹かれた。


そして、新作を読み終えての第一印象。
良くも悪くも、紡木たくはまったく変わっていなかった。
柔らかく凛とした画風、そして、幼少期の、余裕の無い両親との間に生まれた寂しさ、そんな彼女を癒した、社会的には恵まれていないけれど、逞しく寂しく優しい人たちとの出逢いといった世界観は、本当にまったく変わらず、鮮度も失われていなかった。
主人公の少女が話す、現在の中高生のような片言のモノローグも、驚くほどリアリティがある。お子さんやその友人達との、日々の付き合いも大きく影響していそうだ。


経験の蓄えや、価値観のものさしの少ない、自分の体験と思いを一般化するすべを持たない人たち(特に子供たち)の頼りなさや寂しさを、周囲の空気ごとフリーズドライしたように記憶し、事後的な解釈を加えることなく表現する力の「純度」において、紡木たくに並ぶ人を自分は知らない。
コマ同士の境界が曖昧で、白い背景に、周囲の人々の会話や物音が、登場人物の内心のモノローグと一緒に「映りこんでいる」ような、当時「斬新」と評価された手法は、こうした「言葉を持たない」人達の、混沌とした意識の断片をそのまま写し取って、ギリギリの所で表現として伝わる形で定着させるために、必然的に生み出されたものだったのだろう。
そして今作では、コマや「吹き出し」さえも消えて、絵と絵を繋ぐように、主人公のモノローグだけが書き込まれていく。
少女の書くつたないポエムやブログのように、断片的な体験や記憶は舌足らずに飛躍する。けれどその舌足らずさから、現在進行形の人間の、息詰るような生々しさが伝わってくる。


ただ、コママンガによる情景の詳細な描写と物語化がなくなったことで、より受け手の間口を狭めてしまったことは否めないと思う。例えば『瞬きもせず』での、ファミレスでビールをこぼしてしまった父親を紺野君に見られてかよちゃんが恥じるシーンのような、重層的で繊細な場面描写はモノローグでは不可能だし、こうした繊細さや寂しさに必ずしも強く共感しないような読者にも、表現としてそれを伝える力が、彼女のマンガには確かにあった。だから、彼女がマンガという手段を捨ててしまったのだとしたら、それはとても残念なことだと僕は思う(90年代以降の少女マンガ界の志向が、彼女のそれと大きくずれてしまった状況を斟酌しても尚)。


また、更に本質的なことを言えば、紡木たくは「人間関係」を描けない人だということも、今回はっきり思った。
エゴを持った人間同士の、衝突と調停の場としての「人間関係」や「社会」を描くことができない。
自他の中の生々しいエゴや本音を、そのまま認めることができないから。
決して「見えていない」わけじゃない。ただ、認めることが出来ないんだと思う。


彼女の作品には、「本当に悪いヤツ」が出てこない。
初期作品では彼女自身の若さもあって、苛立ちや怒りも表現されたり、激しくわが道を突っ走る恋人との葛藤や、孤独な者同士の共感や求め合いと自立の間でのせめぎ合いといったテーマも描かれたけれど、それも彼女の繊細さと真面目さゆえであって、その後はどんどん、他者を許し、信じ、許容しようとする優しさの方が大きくなっていく。
登場人物たちの笑顔のシーンが、おそらく意識的に増えていく。
同時に、儚げな繊細さとストイックさを、更に強めてもいく。
心なく冷たい人間や世間というのは背景に描かれてはいるけれど、主だった登場人物たちはみんな、それぞれに事情を抱えて自分のことに精一杯だったり、幼さや視野の狭さからすれ違ってしまったりするけれど、相手に求めるのではなく、信じ、受け入れて行こうとすることで、それを乗り越えていく。
こうした姿勢を貫きながら尚、自分を支えるには、信仰に救いを求めることは必然だっただろうと思う(彼女は敬虔なクリスチャンで、「神」と「無償の愛」はこの作品の根幹に大きく関係している)。


本作の主人公は、幼い頃に両親が離婚し、母親と新しい父、そして二人の間に生まれた妹と暮らしている。
母も、新しい父も優しく、心から彼女を気遣い、妹のことも愛おしく思っている。けれど、どうしてもどこかで自分があぶれているような孤独を感じ、そのことによってすべてが虚しくなったりもする。
自分がこうして生きて存在していることを、当然の感覚として肯定することができない。
客観的に共感できるような不幸が物語によって説明されるわけではないから、彼女の語る孤独はそれを体感していない人には、なかなか共感しにくいものだろうと思う。
あるいは、そんな孤独や空虚は前提に、俗っぽく力強く生きていくのが人間だという人生観から見れば、鬱陶しく感じられてしまうこともあるだろう。
けれど、それを切実に感じながら、跳ね返すバイタリティも持てないでいるような人には、それぞれの理由や事情を超えて、本作の体感的なモノローグは、何ものにも代え難く強く響くんじゃないだろうか。


紡木たくは、彼女のマンガの登場人物そのままの、透明感のある美人だという噂を、昔からよく耳にしていた。
彼女のマンガでは、攻撃性や支配欲、所有欲や嫉妬といった、禍々しい衝動を含む「性的なもの」が、まったく描かれてこなかった。このことには「少女マンガ」というジャンルの制約以上に、エゴに開き直れない彼女の資質が大きく作用していると思う。
だから若い頃、自分の中の禍々しい性欲を、出口のないまま恥じ入るしかなかったモテない男としては、正直そこに憧れと反発とコンプレックスがない交ぜになった、フクザツな思いを抱いたりもした。
また、自分の弱さ、繊細さに苦しんでいたため、人の本質的な孤独や、無常観、喪失感といった「どうにもならないこと」はなるべく意識せず、遠ざかる方向でやっていきたいと思っていた自分には、そこに真摯に、頑固にこだわり描く彼女のマンガは、大切であると同時に、読み返すのにちょっとした覚悟が必要なものでもあった。
俗っぽい欲望や暴力性に自分を駆り立てながら生きていることと、なかなか両立が難しかった。
けれど、多くの価値観の引き出しを持っているようでありながら、その実そのどれにも忠実ではなく、互いを互いの不備の言い訳にしているような現在。誰もが互いのだらしなさを、最早そうと意識しないですむ程になし崩しに許しあい、馴れ合っているような状況において、あくまで清廉な建て前を信じ、守り続ける、いや、それを建て前と意識しないほど、ほとんど本音と一体化させて生きているように見える彼女の一貫性が、信頼に足る数少ないものだとも、確かに思う。
彼女のマンガに触れる度、阪妻の『無法松の一生』を観るような、懐かしい気持ちになる。


主人公の足の不自由な愛犬を、「かわいそう」と哀れみ差別するような世間(俺はこの「哀れみ」自体は仕方のないことだと思うけれど)を、どう受け入れ、どう付き合い共存していくか、あるいは受け入れられないものをどうかわし、どう闘っていくかを模索する物語の必要を、僕自身は強く感じるし、生きるバイタリティを保つために、彼女のような優しい清廉さに同化することも当分出来ないし、しないと思う。
そして、それでも彼女のマンガは大切で、かけがえなく思う。
逆に言えば彼女自身は、マンガとして、表現としてどうとか、世の中、人間一般に対する普遍性なんてことは露程も思わず、ただ、自分の信じるものを、それを必要としている誰かに届かせることに全力を注いでいるだけだろう。
そして、剥き出しの現実に傷つき、或いは「どうにもならないもの」を前にした時、彼女の描く穏やかで清廉な生き方に、信じるに足るものを見、それによって救われる人は確実に存在するはずだ。例えば、ケータイ小説や難病もの、スピリチュアル系の人生読本などの読者の中にも、一定数は確実に。
そうした人々に、誠実な姿勢を示しえる彼女のような作家は本当に貴重だと思うし、書店でも、そうした潜在的な読者にこの本が届くように並べられて欲しいと願う。


そして最後に、一つだけ欲を言うなら、この作品、僕はフルカラーで読みたかった。

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