ロッキー・ザ・ファイナル(1)


ロッキーに関しては、もう昔からの地元の友達みたいなもので、作品としてどこが良いとか悪いなんてことを言う気がしない。だから、どうしても手前味噌な思い出話みたいになってしまいそうだ。


第一作をはじめて観たのは、たしか中1か中2の秋の月曜ロードショー(ロッキーの羽佐間道夫やミッキー千葉耕市はじめ、吹き替えのハマリ具合が本当に最高で、今でもDVDで再見する時は吹き替え版で観ることが多い)。
うちの実家は教育熱心で、なかなか夜のテレビを自由に観ることができなかったんだけど、調度この季節は定番名作や話題作の放送が続いていて、親達もそれを観ていたおかげで「ジョーズ」や「スターウォーズ」の第一作あたりと立て続けに観ることができた。ある意味自分の洋画原体験だけれど、中でも「ロッキー」の印象の強さは他とは比べものにならなかった。
年齢的なタイミングの良さもあっただろうけど、むしろ後から繰り返し観れば観るほど、本当に奇跡的な映画だという気持ちが強くなる。自分はあまり記憶力が良い方ではなくて、映画を観てもシーンのディティールや細かいセリフを思い出せないことが多いのだが、「ロッキー」はビデオで再見できるようになるずっと前から、1シーン1シーンが本当に流れることなく、強く記憶に残った。


素朴でどん臭く間が抜けていて、周囲に軽んじられがちなロッキーと、内気なエイドリアンのぎこちないカップル。閉まった無人のスケート場での初デートは、侘しさゆえによけいに、抱きしめたくなる程愛おしく思えた。
ずっとロッキーを軽んじていた老トレーナーのミッキーが、タイトル戦が決まった途端にマネージャーを申し出てきて、ロッキーは今までの鬱屈を叩きつけるように捲くし立て、けんもほろろに追い返した後、すごすごと帰っていくミッキーの小さな背中を追いかけていって握手するシーンが大好きだ。
友達のロッキーと妹のエイドリアンが出来上がってしまい、今までさんざんお膳立てしてたくせに拗ねて暴れるアル中のポーリーもイイ(シリーズが進むにつれて、時代に素直に染まり過ぎるお人好し加減ゆえの、作品の変化に寂しくなりかけた時、ポーリーの変わらなさ具合にいつも救われた)。
彼らメインキャラクターだけじゃなく、ロッキーを取り立て屋に使っていたヤクザのガッツォの、アメとムチの使いどころを心得た喰えなさ加減と、同じイタリア系のロッキーを応援する義理堅さの混在の仕方も実在感があったし、ミッキーが連れてきた怪我の治療屋のぶっきらぼうな無表情さなんてところまで、いちいちが個性的だった。
優しすぎず、かといって主観的に世界の殺伐ばかりが強調されすぎず、静かに人々を眺めながら、ありのままの人間に優しい視点の在り方が、ラストのファンタジーをただの絵空事と感じさせなかった。
はじめて観た翌日、俺もロッキーを真似て起きぬけに生卵を飲み、神社の階段を駆け上って、学校でゲロ吐いた。運動オンチと体力の無さがずっとコンプレックスだったので、この機にガッツで克服したいと思ったけど、すぐに挫折した。ロッキーのような「やるだけやったんだ!」という境地にずっと憧れながら、情けないことに今もってそういう実感を持てずにいる根性なし、甲斐性なしだけど、今でもロッキーのラストは観るたびに泣いてしまう(それにしても、あのビル・コンティのサントラはズルすぎる。女性コーラスが入り、客席にエイドリアンが見えるあたりで、どうしても自動的に涙腺が緩んでしまう)。
「泣いてしまう」なんてことを書くのが恥ずかしくない、いや、やっぱり恥ずかしいけど、それでも感動の方が勝ってしまう、本当に映画と自分の間に、余計な意識や退屈な隙間がまったく入り込むことがない、しかも100%「好きだ」といえる、ほとんど唯一無二の映画体験だった。


(続く)


「ロッキー」30周年記念エディション

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