同時代の一観客にとっての『竜二』について

「さりげなく切々と我が子に歌うショーケンの佳曲「ララバイ」に触発された故金子正次の脚本、主演、自主制作による一作。シノギを持てず妻子と別れた過去を持ち、懸命に成り上がったがどこか空虚で、いつしか鎧が重くなる80sヤクザ竜二。「なんかさー、金とかも、もうあんまりいらないんですよね…」と、文太兄ィなら「そがな考え方しとったらスキができるぞ!」とどやしつけそうな弱音を吐く彼だが、男のプライドと平穏への願望を揺れる、ナイーブな荒みを宿した金子の「ナマ」な佇まいは迫真で、「元本職」との伝説まで生んだ」

05年、「ロック画報22・映画×ロック」に寄せたレビュー。
日本映画といえば角川映画かアニメくらいしか中高生の話題に上ることが無かった当時、例外的な人気をこの映画が得たのは、フィクションの中では初めて見る程身近に迫ってくる生活臭と、どこかナルシズムを処理しきれないこのナイーブな荒み故だったと思う。
当時、パンフレットに寄せたインタビューで金子正次は、自分は『ガキ帝国』という映画が好きだけれど、竜二というのはあの仲間の中に入れなかったヤツなんだ、と話していた。
資質や育ちの問題で、気性の激しいある種の不良というのは、必然のように偽善に敏感になる。彼の激しさを恐れて、普段は誰もが顔色を伺い機嫌を取るけれど、クラスの席替え、班替えなどになると、必ずなんとなくあぶれてしまう。僕も、別の情けない事情で周囲から浮いている子供だったから、自分が望んだわけでなく自然に彼等と過ごす時間が長くなる。けれど、性格にも育ちにも実のところ大きな隔たりがあって、半端に同情して無理をしていると、結局最後は付き合い切れずに、却ってギリギリのところで裏切るような結果になる。
だから、彼等と接点の無かった人々がこの映画に特別な苦手意識を持つことも直感するし、勝手な贖罪のようにそこに過敏になって、肩を持ちたくなってしまうところが今でもある。