笠原和夫『妖しの民と生まれきて』の中で、疎開児童に対する街っ子の憧憬と愛憎の機微がよく描かれていると紹介されていて気になっていた、藤子不二雄A原作、篠田正浩監督、山田太一脚本の『少年時代』をビデオ観賞。

bakuhatugoro2004-10-15



予想を大きく超えて凄くいい映画で、嬉しい驚き。


山田太一の、あの独特の癖のある台詞まわしもここではまったく影を潜め、篠田監督の、いつもなら平板に感じかねない静的かつオーソドックスな演出も、この映画に関しては功を奏して、子供の頃の、本人の中でも混沌としている、自分に無いものを持った友人への憧れと愛憎が、本当に丁寧に描写されていた。
都会っ子の優等生である主人公への好意が、嫉妬や独占欲へと昂じ、苛めてしまう田舎のガキ大将。
グループの下僕扱いを受けながらも、主人公はガキ大将の自分への好意も感じているが、彼にへつらっていると見られるのを嫌うプライドから、彼から遠ざかるようになる。
やがて、長く病欠していた、地元の名士の子である副級長の巧みな懐柔によって、ガキ大将は権力を失い孤立。逆に、かつての手下からさえひどい苛めを受けるようになる。そんな孤独と屈辱の中でも、彼は誰に助けを求めることもなく、主人公の同情も「俺は、ちっとも可愛そうじゃない!」と、拒絶する。


「ヤツの家は貧しいから、いくらそのつもりでも上の学校へは行けやせん。いばっていられるのも今のうちだ」「心配するな。あいつは絶対告げ口なんかせん。そういう性分や」と、冷静に相手と状況を把握し、追い詰めていく副級長。主人公は、「もうやめてもいいんじゃない? やめても、もう、いばったりしないと思うよ」、と恐る恐る止めるが、「やめられん。隙を見せたら、すぐに盛り返してくるから」と拒む。


製作者たちは、子供たちの愛憎と闘争を丁寧に掬い、描写しながら、最終的に子供、というよりも大人も含めた人間が、どうしようもなく、そうした生態と衝動を内に持ち、生きていることを静かに認めていると思う。
勿論それは、安全な場所から俯瞰しての達観じゃない。人はこうした体験の中で、一生引きずるような傷やコンプレックスを刻印されもするし、自分の弱さや限界を知り、恥じ、またそれに拘ったり慣れたりしながら生きていく。そうした、誰にもある、そして決して等分ではない理不尽の中で生きていることを受け入れ、しかし決して誤魔化さず、忘れない。


終戦を挟んで、それまで善ないし当然事と認められていたことが、一夜にして許すべからざる悪とされてしまうような、世間の手のひら返しに、無力ではあったけれど、決して忘れないように。


こうした、子供時代の混沌とした闘争や愛憎は、時代に関係なく、多かれ少なかれ誰もが体験するけれど、大抵の者は、その中での自分の弱さやズルさ、無力を忘れ、断罪したり部外者ヅラをしたりする。そこで傷を受けた者も、自分の痛みを事寄せるように、「理不尽」ばかりを強調してしまいがちだ(そんな彼らの表現は、イワユルヒトツノ「リリィシュシュ」になってしまうわけだ)。
この映画の最も素晴らしいところは、最終的にすべての体験、記憶を、痛みや苦味も含めて「愛おしいもの」として受け止めているところだと思う(陽水のあの主題歌も、変に主観に入り込まない普遍的な叙情性が、この映画によくハマっていた)。それは、一部の戦中派表現者たちが共通して持ち、以降の世代にほとんど見られない美点そのものだ。
(篠田、山田の、自己主張を極力抑えた、原作を尊重した態度から推し量るに、これはおそらく藤子不二雄Aの持つカラーなのだろう。正直俺は『まんが道』を別格的例外として、彼のブラックユーモアの、現代人の肥大したエゴや自意識を指摘するだけで投げ出してしまうような作風を、何だか無責任に感じて、全体にF作品ほど愛着を持てずにきたけれど、もしかしたら彼なりの大人のバランスの結果だったのかも、と、現在の視点で読み直してみたい気がしてきた)
彼らのこの強さ(と、そこに発した優しさ)が、いったい何によって生じ、支えされていたのかを、詳しく知りたいとあらためて強く感じる。


少年時代 [VHS]

少年時代 [VHS]


愛蔵版 少年時代

愛蔵版 少年時代