かけがえのない俺・長谷川和彦について

●伝説の映画監督

もうずっと以前、たぶん30年近く前から(つまり、彼が30代そこそこの頃から)、「ゴジ」こと長谷川和彦は、すでに「伝説の」映画監督だった。
当時の若い映画ファンにとって、彼の映画はスペシャルだった。
巨匠による古典とか、しかつめらしい思想映画や芸術映画といった、お勉強して理解する類の「名作」ではなく、かといって定番の娯楽映画でもない。リアルタイムの若者の気分に直に刺さる、「ポップで尖っててカッコイイ」映画の元祖であり代表、という位置をずっと占め続けてきた。
戦後生まれで初めて芥川賞を取った同年の小説家、中上健次による短編『蛇淫』を原作に、うるさい両親をブチ殺す青年を描いた『青春の殺人者』。
当時人気絶頂のスーパースターだった沢田研二演じる中学教師が、自宅で原子爆弾を製造し、日本政府を脅してプロ野球のナイター中継の放送延長や、ローリングストーンズの来日公演を要求する『太陽を盗んだ男』。
ゴジが現在までに残している映画は、70年代に撮られたこのたった2本きり。
けれど、それらは雑誌の「日本映画オールタイムベスト」的な企画で常に上位にランクされ、同時にカルト映画の代表のようにも位置づけられている。つまりオーソドックスとかカルトとかいった区分けを全く無意味にしてしまう、「日本映画の革命」のような存在だった。
そして、その後30年近く(!)、映画を撮らずに沈黙し続けるゴジは、現在もなお最も次回作が期待される映画監督であり続けている。

以上、誇張でも何でもなく、現在までの彼の評価を端的にまとめてみた。
主観に照らしても、嘘や間違いを書いているとは思わない。
けれど、この紹介によって初めて彼の映画を見る若い読者が持つだろう感想を想像すると、正直ちょっと(実はかなり)不安を感じてもいる。

たとえば『青春の殺人者』の冒頭シーン。
「こ、こ、こんぺいとうは甘い、甘いはお砂糖、お砂糖は白い、白いはうさぎ、うさぎは跳ねる、跳ねるはノミ、ノミは赤い、赤いは電気、電気は光る、光るはオヤジの禿頭」
しりとり遊びをしながら、露骨に大げさな身振りで子供っぽくじゃれあう水谷豊と原田美枝子
等身大の若者の日常を映したシーンであるだけに、演劇的で硬いセリフと演出が、現在の感覚からすると尚更作りものっぽくて、古臭く見えてしまっているんじゃないか。自分たちとは関係ない、大昔のアングラ趣味な映画だと括られて終わってしまうんじゃないか…と。
でも、もう少しだけ我慢して観続けてみて欲しい。

青春の殺人者

「ベニス笠持ち、ボーデンつれて、行くかヴァギナのふるさとへ」なんて詩の引用で、性的な暗喩を匂わせるセリフは観念的でおっさん臭い。が、その直後のワンカットで、映画の印象は劇的に変わる。
小雨の降る中、オレンジの女物の傘をさして、車の行き交う道路の隅を歩く水谷豊が、トラックがはねた泥水をもろに浴びてしまうロングショット。彼は不機嫌に振り返るけれど、それでどうなるわけでもなく、またトボトボと歩き始める。そこに重なる鮮やかな赤字のタイトルと、ゴダイゴの音楽。
固い勝ち気さと所在なさが入り混じった、仔犬のような水谷豊の表情。バスの車窓を流れていく工業地帯と炎を吹き上げる煙突。歴史から切り離された荒っぽく寒々しい新開地の風景。そしてビートルズAORを通過させたようなゴダイゴのナイーブなメロディが溶け合った画面は、ほろ苦く頼りない青春の気分そのもののように、観る者一人ひとりの琴線に直接触れてくるだろう。

原作となった中上の『蛇淫』は、69年に千葉で実際に起こった親殺しの事件を、彼の故郷であり主な作品の舞台でもある紀州に移し、ぐっと彼自身に引き付けて書かれた小説。元チンピラの青年が両親に自分の女を侮辱され、成り上がりのくせに上っツラばかり整えようとする彼らへの潜在的な苛立ちもあいまって、突発的に殺してしまうという話だった。
対して映画は、ゴジの師匠である今村昌平譲りの徹底的な取材で、小説の元になった事件そのものを調べあげ 、舞台も千葉に戻し、主人公を現代っ子風のナイーブな青年に書き換え、両親の過干渉との葛藤を大きく膨らませて描く。
脚本を担当したのは田村孟。元「創映社」のメンバーとして、大島渚と共に『白昼の通り魔』『少年』といった、戦後民主主義的なヒューマニズムからはみ出した人間を生々しく描く映画を送り出してきたライターだ。彼は、戦後この方、誰もが目指すべき豊かさの象徴として思い描いてきた「幸福な家庭」というイメージの行き詰まりを、映画の背景に置く。懸命に働いてそれを手に入れた途端、目指すべき「未来」を見失って迷走し、崩壊させていく悲劇。そして、過保護、過干渉の両親と、それを拒めない息子との葛藤、特に母性で取り込もうとする母親に対する男の子の「母殺し」を映画の中心に据えた。
一方、「親殺しという苦渋に満ちた世界は彼の感性にはうっとうし過ぎたらしく」(『生きている過去にまた追われる』「シナリオ」92年2月号)と田村も回想するように、ゴジ自身は(無意識の部分では知らず)実のところ、「親殺し」という行為の過激さとタブー性に惹かれていただけだったフシもある。両親との葛藤云々といったテーマを、あらかじめ切実に持っていたわけではなかったらしい。が、それでも、「監督をしたいんであって、他人のホンで撮りたかったんだな」(『青春の殺人者』DVD収録のインタビュー)と語っているように、持ち前の馬力と素直な資質で、臆することなく田村の脚本に、真っ向から徹底的に向き合っていく。

 

●目一杯の人間はおかしくて哀しい

自宅のタイヤ修理工場で忙しく働いている主人公の両親を演じているのは、日活アクションの名物悪役だった内田良平と、『家政婦は見た!』や『まんが日本昔はなし』でおなじみのおばちゃん女優、市原悦子
水谷豊は、流行の学生運動にカブレることを危惧した父親に大学進学を許されず、代わりに小さなスナックを与えられ雇われ店長のように暮らしている。彼は、原田美枝子(当時17歳!まだ後の「不思議ちゃん」ぽい自己演出はなく、弾けるような童顔に、アンバランスな程でかい胸が何ともエロかわいい)演じる幼なじみと店で同棲しているのだが、これを両親は気にいらない。彼女は、彼らが工場を起こす前に暮らしていた貧乏長屋のお隣さんの娘だった。相かわらず毎日自堕落に飲んだくれている彼女の母親(最初期の日活ロマンポルノを支えたピンク女優・白川和子の、子供がそのままおばちゃんになったような汚れ演技が怖いくらいに生々しい)ともども嫌っているのだ。
主人公の父親は、かつて彼女が母親の愛人に犯されていたことまで興信所を使って調べ上げ、下世話な口調で息子に話して聞かせる。
「人間に惚れたってほど大層なものなのか?」
自分自身、若い煩悩に引っ張られている心当たりもあり、また彼女をどれだけ知っているのかも怪しくなってきてテンパった息子は、目の前の果物ナイフで突発的に父親を刺し殺してしまう。

この光景に直面した母親は、一瞬驚き戸惑ったもののすぐに開き直り、気持ちを切り替えてしまう。
「私、本当言うと、こういうこと望んでたような気がするの」
「ある日、あの人がぽかっといなくなってくれたら…。そうしたら、トラックの、タイヤなんて力仕事から逃れられる…」
工場とスナックを売り払って、分譲マンションで息子と二人甘い暮らしをする夢を、上気した顔で一心不乱に語り続ける母親。
「私がお嫁さんの代わりになるから我慢しなさいね」
しかし、息子に拒絶されると、今度はおもむろに包丁を取り出して突きかかる。
相手にシーツを被せ、視界を奪い合いながら揉みあう二人の争いは数分にわたって延々と続き、息が詰まるような閉塞感だ。「殺してやる!」と「もう死にたい」の間を振り子のように行ったり来たりの彼女に引きずられるように、遂に彼は母親を刺してしまう。
こうした一部始終は、ホラー映画ハダシの迫力としつこさで撮られていて、もはやナンセンスなおかしさすら漂ってくる。ある種、「負のエンタテイメント」として成立しているとさえ思う。
ただ、不思議と突き放した冷たさは感じない。
「目一杯の人間のすることは、いつもおかしくて哀しい」と、ゴジは語る。そして、彼自身「目一杯」に、映画の中で自分を突き詰めていく。

●完結しない映画

小説は、両親を殺したところで話が終わっているが、映画の方はむしろここからが本番だ。
すべてを終えて、雨上がりの街に出る水谷豊。
ゴダイゴの「YELOW・CENTER・LINE」が流れ、花火が上がり、祭りに賑わう雑踏の中を彼が一人歩くシーンには、延々と続いた密室での親との戦いからの解放感と、自分の力だけで何かを成し遂げた者の上気した高揚とが画面に満ちる。
このいきさつを彼女には黙ったまま別れ、一人で去っていくつもりだった彼だが、別れ際の男女にありがちな、甘えたり突っぱねたりをグズグズ繰り返すうちに、結局バレて一緒に逃げることになる。
時間が経つにつれて、彼は自責と後悔に苛まれ、刺し殺す前に父親に聞かされた話を彼女に当てつける。タフな育ちの彼女は悪びれず、ケロッとそれを認めるが、余裕を無くしている彼は彼女を拒絶する。それでも彼女は、「誰かのせいにしなきゃ気違いになっちゃうよ、ねぇ」と、そんな彼を受け入れる。自分と、ナイーブな彼との違いを分かった上で、気にしすぎずに彼を思い遣る、地に足の着いた彼女の描き方がとてもいい(骨太で、元気で、初々しい原田美枝子の演技も素晴らしい)。性的なものだけを過剰に意識するあまり、それをさも「人間の本質」として特化してしまうような、この時代にありがちだった頭でっかちな平板さから映画を救っている。

若者や家族連れが愉しげに戯れる、平和な海水浴場の風景の中で、彼は幼い頃の自分と両親の幻を見る。
家族は貧しく、職の無い父親は海水浴場で自転車を引き、アイスキャンディーを売っている。母親と幼い彼は、弁当を持って父親を迎えに行く。
父親は彼を肩車し、3人は仲睦まじく歩いていく。
「他に仕事がなくてこんなもん売ってたんだ。そのうち金貯めて、でかい商売しようなんて思って、食うもんも食わないで、飲むもんも飲まないで…。バッカだなぁ」
主人公の頬を涙がつたい、それを見た彼女もまた泣き出してしまう。
「断れば断ることができた…。おれは、自分のものなんか持たないほうがよかったんだ。だけど、おれ、なんにもないことが寂しかったからつい…」

主人公の延々とあてどない迷走に、どこまでも優しく寄り添い続けるようなこの後半パート。ゴジがそれまでに書いてきた『青春の蹉跌』『宵待草』といったシナリオに描かれている、目標を見失ってウロウロと迷走する若い活動家崩れ達の悲喜劇の印象と並べて、ゴジ自身が大きく膨らませたものだろうと、僕は勝手に思い込んでいた。ところが、今回あらためて映画とシナリオをじっくり照らし合わせてみて、細かなところまでほぼシナリオに忠実に撮られていたことを知った。
ただ、唯一シナリオと大きく違うのはラストシーン。ここは正真正銘、ゴジのオリジナルだ。
シナリオでは、主人公は自分がつけているペンダントの模様である「怒り」と「無垢」という少年の二面性を象徴する不動明王と、死によって一体化する儀式のようなことをはじめるが、途中で突然投げ出してしまう。そして不動明王を捨ててしまうことを、大人への通過儀礼の象徴のように描く。
「逃げて、生きて…、父殺し、母殺し…そういう野郎として、日本中をいつまでも…」

こうした観念的な象徴による描写、説明というのは、一見難解なようで、実は現実をある図式や解釈の範囲に当てはめていて、結論がすっきりとわかりやすい。すると受け手は、現実を(あるいは映画を)客観視できたつもりになり、頭での理解の範囲で完結させてしまう。
ゴジはシナリオを丸ごと捨て、象徴による表現に逃げることなく、最後まで主人公の具体的な行動で映画を貫いていく。
スナックに戻ってきた彼は、彼女を締め出し、灯油を撒いて火をつけ、柱に自分を縛って焼身自殺しようとする。しかし結局回ってくる炎の熱さに耐えかねて、命からがら外に飛び出してしまう。
死にきることさえできない彼は、火事を見に来た野次馬たちに混じって焼け落ちるスナックを呆然と見つめていたが、彼の隣でやはり呆然と炎を見つめている彼女を置き去りにして、一人行きずりのトラックの荷台に忍び込む。
流れていく街路灯の光の向こうに暗闇へと走り出すトラック。いつしか「Its・good・be・home・agein」と歌うゴダイゴの優しいメロディが流れ始める。暗闇に消えていくトラックの荷台で静かに立ち上がる彼は、過去をすべて失ってしまった心細い存在でもあり、母性的な彼女の庇護を拒否して、敢えてすべてを断ち切り一人になって自立しようとする男の子の、少しだけ逞しくなった意地らしい姿にも見える。

中上健次は『青春の殺人者』について、「千葉、市原にロケをしながら、新開地としての千葉のエネルギーを描く代りに、成田闘争やら、家族帝国主義という一時代前の風俗図式を持ってきていて、鼻白む」と、彼らしい批判をする一方で、「この映画を見ながら、映画は唖の苦しみだと思った」「血を見つめた者の、モノローグからダイアローグへの過程を描いた映画と言えよう。力作である」(映画ノート76~77『夢の力』)と、この後半部を評価するかのような言葉を残している。
青春の殺人者』という映画は、最後まで完結しない現在進行形のまま、観る者一人ひとりの未来へと確かに開かれている。

 

●男の子のロマン

青春の殺人者』の主人公は、ナイーブなパラサイト青年の自意識の迷走を描いたという意味で、現代的な男の子たちの先駆けのような存在だと言えるかもしれない。それを描く感性も、冒頭の演出について触れたように、孤独な自意識に付随する甘い感傷など、現在の受け手とそのまま共有されうる。
その一方で大きく違っているのは、彼と両親の間にあるジェネレーションギャップの大きさだ。現在の観客にとっては『ALLWAYS三丁目の夕日』的な美しいノスタルジーにも見えるだろう両親との記憶だが、主人公にとってそれは、負い目とそれ故の鬱陶しさがない交ぜになって彼を縛る現実だ。そして、「個人の自立」や「自己実現」が、まだ通念として受け入れられていなかった当時の、彼らの出口の見えない衝突のリアリティは、親子共に戦後の豊かさと個人主義の中で育った新世代にはわかりにくいかもしれない(おそらく現在55歳の水谷豊は、多くの読者の両親よりも年上だろう。そして、現在の彼を見ていると僕は、「若さ」を重要なアイデンティティとしていたこの世代以降の役者の、年の取り方の難しさを痛感せずにはいられない)。
そしてもう一つ、両者の違いとして印象的なのは、現代的な物語の多くが自分よりも大人な女の子に受け入れられたり、逆にか弱い少女を庇護しようとすることを主人公の成長(或いは救済)として描いていることに対して、水谷豊はよく出来た彼女を置き去りにして一人で去って行くことだ(これは、ゴジの個性という一点について考えた時、両親との葛藤云々といったことよりも、ずっと本質的な特徴だと思う)。

「最初俺は「過保護児童のヒステリー犯罪か?」くらいに思っていたんだけど、実際に法廷で見る彼の印象は全く違っていたんだ。『無頼・人斬り五郎』の頃の渡哲也みたいでさ、男らしくてかっこいいんだ。もし渡哲也がもっと若かったら、出演依頼したかもしれないくらいね」(『伝説の監督が復活する』スタジオボイス97年11月号)

格好の付かない人間のナイーヴな揺れにこだわった『青春の殺人者』に『人斬り五郎』の渡哲也というと、一見イメージが繋がりにくいかもしれない。が、一方で無力で何も持たないが故に、ストイックに強がる男の子のロマンやダンディズムといったものを、根っこのところでゴジは色濃く受け継いでいる気が、僕はするのだ。また同時に、当時の渡哲也の初々しさと独特の固さのバランスが絶妙な面影を思い出すと、こうしたロマンの裏生地にある、不器用に日常との折り合いを拒否しているような「童貞っぽさ」を、やはりゴジにも感じてしまう(そして誰もが、恋愛だ、人間関係のスキルだ、モテるだモテないだと、女々しく汲々として恥じることのない現在にあっては、この頑なさを「しょうがねえなァ」と思いながらも、どこか清潔な意地らしさとして好意を持ってしまう)。
ゴジが全編の脚本を担当したテレビドラマ『悪魔のようなあいつ』(75年)でも、主人公のジュリーが、彼に群がってくる女達(ヤオイ的な関係にある藤竜也も含む)を、面倒くさそうに全員撃ち殺してしまうのが印象的だった。それは原作の阿久悠上村一夫、演出の久世光彦といった人たちが作る、オッサンの湿った情念が滲む隠花植物のようなデカダンスやメロドラマが、内心鬱陶しくて堪らなかっただろうゴジの叛乱のように見えた。

「そうだよ。その考えが間違ってたんだよ。耐えるって考えがね。時効の日までずっと耐える。そうすれば時効になった次の日から、俺は新しい別の人間になれるって、そう思ったのが間違いだったんだよね。え?野々村さん!そんなものは嘘っぱちだよ。待ってちゃいけないんだよ。自分の力で強引にね、ジャンプするより他にないんだよ。特に寿命の短い人間はね』(『悪魔のようなあいつ』最終回より)

敗戦直後の広島に生まれたゴジは、原爆投下後の市街を歩き放射能を浴びた母親が身ごもっていた胎内被爆者だった。彼自身多くは語らないものの、自分があまり長生きできないのではないかという人間関係云々以前の恐怖と孤独を、幼い頃から抱えてきたはずだ。それが彼の「どうせ普通には生きられないから、他人や世の中がどうだろうとやりたいようにやり切る!」という青春的な姿勢に更に切迫感を加え、迷走を続ける主人公の孤独にこだわらせ続ける一因になったことは間違いないだろう。そしてそれを被害者ぶって感傷的に訴えるようなことは一切せず、あくまでもロマンとして表現しようとする彼の男気を、僕はとても好ましく思う。
そしてゴジは、肉親との絆や、自分を受け入れてもくれ相対化してくれる存在でもあった逞しい恋人といった、自分のこの世での手がかりを振り切って前に進む少年のその後を、続く『太陽を盗んだ男』の中で模索していく。

太陽を盗んだ男

この映画が公開されたのは79年。高度成長が達成されて誰もが豊さを実感していたが、それが「個性」へと人々を煽りバラバラにするには至っていなかったエアポケットのように安定した時代。映画の中にも、デパートの屋上や歩行者天国など、休日の家族の風景が映り込んでいる。
こうした時代を反映して、この映画は彼らに向けた、荒唐無稽な大作娯楽映画として作られている。
しかし一方、そこで描かれる人間と世界観は、それまでの活劇で定番だった「社会派の重厚さ」や「アウトロー性」とはまったく異質な、彼らを挑発し、不安にさせるようなものだった。

ジュリーが演じる主人公の中学教師は、都会のアパートで一人暮らしをしているが、彼の過去や家族といった背景は一切描かれない。
平穏でぬるま湯のような日常に退屈している彼は、ある時、原子爆弾を作りはじめる。
彼は孤独ではあるが、たとえば『タクシードライバー』のトラヴィスや、或いは現在のオタクやニートの男の子を主人公としたアニメやマンガのように、鬱屈や焦燥やコンプレックスを強調して描かれているわけではない。
彼は、「この街はもうとっくに死んでいる。死んでしまっているものを殺して、なんの罪になるというんだ?」なんてことを口にするけれど、「死んでいる」人々自体、何をもって彼がそれを死んでいると感じているのかはという現実自体は、はっきり指摘も描写もされない。
ジュリーの行動は、頼りなく無軌道な社会病理のようなものとも見ようによっては見えるし、一方では、作り手自身がそれに肩入れして楽しんでいることも明らかに感じられる。
いずれにしろ、この映画でもゴジは、主人公の行動の真意や、その善悪といったことを語ろうとしない。
それは、自分の内心や気分以外に、何の基準も持たない、持とうとしない者による世界にも見える。
ただ、ジュリーはそのことに退屈し、死んでいるはずのこの街の「公」を背負って守り続けている、菅原文太演じる刑事に興味を持ち、彼を相手に戦ってみたいと思う。
が、正直言って文太の演じるこの刑事も、「体を張って社会を守る凄い刑事」という記号にしか見えない。主人公同様、彼の背景や日常がまったく描かれないこともあって、人としての厚みや体温が感じられない。
ジュリーと文太の戦いは、『青春の殺人者』の息子と母親の殺し合い同様、過剰でしつこくパフォーマティブに描かれる。荒唐無稽な物語の中で、ロマンに飢えて手応えのある敵を求める男の子と、守るべきものにあくまでもこだわる男との衝突。「目一杯」の人間の、おかしくも凄まじいぶつかり合いは、好敵手とも、憎い仇同士とも、或いは愛し合う者同士にさえ見える。
すでに死んでいる世界の輪郭をなぞって良い悪いを言うよりも、それぞれがとことん思うようにやり抜いたらいいじゃないか。
その為にどれだけ傷つき、傷つけたとしても。その先のことはわからなくても。
そう、この映画全体が主張しているようだ。

しかし、一方でこうした姿勢には、自分一人の内心や生命よりも大きな価値を信じ、決してそれを手放さない種類の人間の存在に対する想像力の欠如を、どうしても感じてしまう。
そのことが最も際立つのが、伊藤雄之助演じる、息子を戦争で亡くして心を病み、天皇に直訴しようとバスジャックする老人の描かれる方だ(彼はかつて、岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』で、敗戦の決定を知らず出撃していく特攻機を見送る基地司令官を演じていた名バイプレイヤーだ)。
この映画は彼を(ひいては戦前の人間とその価値観を)、はじめからただナンセンスな狂信者としか見ていない。
「何も信じていない自分」、「何が欲しいのか、どこへ行きたいのかわからない自分」を引き受けて、それでもとにかく生きてやる、暴れてやるという意志だけで駆け抜けるこの映画が、社会的に共有される「信仰」に背を向けることは、良くも悪くも当然だとは思う。が、だとしても、それぞれに生きた時代や状況の刻印を背負い、何かを信じたり愛したり裏切られたりしている人間の量感を踏まえなければ、笑いも哀歓も、はじめからそれに距離を取れる人間同士にだけ閉じた、彼等との葛藤を欠く薄っぺらなものにしかならないんじゃないだろうか。
僕には正直、このバスジャックのシーンが、(街全体を舞台にして遊びまわるような熱気と楽しさを引き算すると)同時代という「大きな内輪」に閉じた悪ふざけ以上には見えなかった。オカマ姿で国会議事堂に入り込むジュリー、メーデー赤旗の群れの中を黒旗を掲げて走らされる警察といった、愉快犯的なタブー破りの数々と同様に。
そしてその原因は、彼が自身を時代や状況から独立した個だと信じるがゆえに、自分を規定しているものを自覚し、懐疑、相対化できないでいることにあると思うのだ。

 

●ゴジはセカイ系!?

青春の殺人者』の冒頭についても触れたように、ゴジの映画には妙な野暮ったさがある。「若者の気分にじかに刺さる」「日本映画の革命」などと書いておいて矛盾するようだけれど、『太陽を盗んだ男』での池上季実子のディスクジョッキーの描かれ方なども、正直かなりキビシイ(彼女のセリフ「プルトニウムをネックレスにぶら下げてプルトニウムラブ、プラトニックラブ、サエないかなァ…」って、ちょっと絶句してしまうセンスだ)。
彼はもともと、「カルト」なイメージに反して、あるナマな現実のニュアンスをまるごと感覚で捕まえて、端的に形にしてしまうことに長けているような芸術家肌のタイプでは決してない。
ラガーシャツとサングラスに下駄履きという風体も、時間が止まっているようで微妙ではあるけれど、そのずれ方が突き抜けた迫力にまではなっていない。なんというか、バンカラ大学生の気分と青春的な反抗のポーズを臆面もなく引きずった、根はリベラルで育ちの良い学校教師風といった佇まいだ。
「~なんだなァ」「~なわけだよ」といった口調は書き言葉みたいに律儀で、主観や気分を乱暴に投げっ放しにしたりすることがない。最近のオタクやインテリタイプにありがちな、わかる人間にだけわかればいい、というような先回りした韜晦や馴れ合いも、自意識過剰さもない。順を追った説明の積み重ねが素直で折り目正しいし、しかもそこには権威的な仰々しさや居丈高な押し付けがましさといった、他者に対する過剰な身構えがない。時々はさまれる偽悪っぽい態度も、裏にナイーヴな照れが覗くのが分かるから、安心して受け止められる。
要するに、純朴で優しい。意識的にも無意識的にもナマの暴力を感じさせない。だから、微温的でダサくなる。

親殺しや原爆製造の映画を作った男に「暴力の意識が無い」なんて、奇異に聞こえるかもしれない。しかしたとえば…。
彼はこの2作を監督する以前、『濡れた荒野を走れ』(73年澤田幸弘監督)というロマンポルノの脚本を書いている。現職の刑事たちが、自ら犯した犯罪を自分で捜査し隠蔽するという内容が警察批判的であるとして、会社の自主規制で公開が危ぶまれた、いわくつきの作品だった。
が、物語自体はモデルになった事件があるわけでもなく、むしろそうした社会的なディティールを一切無視して、語り手自身の気分やイメージを投影した荒唐無稽なものだ。主人公は腐敗した警察権力の中で精神を病んだ元刑事。彼と行きずりに出会った家出少女は彼の狂気の裏に、この汚い世界に耐えられない純粋さを直感的に見抜き、二人は共に旅をする。
一方、事件の漏洩を恐れて彼らを追う地井武男演じる悪徳刑事は、かつては主人公に逮捕されたことがあるしがないチンピラだった。「俺も警官になりてぇ。強くなりてぇ」と自分の無力に泣くチンピラを、主人公は「強くなるってことは、力を持つってことは、加害者になるってことなんだぞ!」と諭す。
さらに映画は、主人公たちの無垢な愛の交歓と、悪徳刑事と娼婦の荒んだセックスを対比するように交互に並べる。そしてラストシーン、主人公を射殺した悪徳刑事に対して少女は「あなたも、かわいそう…」と呟く(少女を演じる山科ゆりがまた、色白で華奢な清純派風の童顔なのだ…)。
「汚れた社会に染まって荒んでいく人間達はかわいそう」と言わんばかりの、あまりにナイーヴで短絡的な飛躍。
これは、今でいう「セカイ系」ってヤツじゃないか?映画ではカットされているが、シナリオでは報道陣によるアナウンスがかぶさる。
「ありがとう加藤刑事!ありがとう原田刑事!本当に良かった!全国の視聴者のみなさんと一緒にまりこちゃんに、そしてまりこちゃんのお父さんお母さんに、心の底からおめでとうを言いたい気持ちです!評論家の××先生はこの事件を…」
「感動をありがとう」式の世間の厚顔さとカマトト振りに対して、ゴジはそうした鈍感な暴力性を耐え難く感じるセカイ系的な立場から、当時まさに非難の渦中にあった、ある集団の行動を救おうとしていたのだろう。
連合赤軍のメンバーたちだ。

●そして『連合赤軍』へ

こうした、「人間の素朴な善意や純粋さを信じたい」という気分は、単にゴジの資質というよりも、この時代の若者に(また、そんな彼らを好意的に見ていた多くの大人たちにも)、広く共有されたものだった。それは、社会の「建て前」への過敏さゆえに、偽悪や放埒、あるいは「暴力に対する暴力の肯定」という過激な形を取ることも多かっただろう。しかしこうした時代の空気は72年、浅間山荘事件の直後に発覚した、連合赤軍メンバーの同士討ち的な「総括リンチ事件」によって一変した。
共通の理想を持ち、互いにその純粋さを競うように目指す中で、互いの中にある理想の障害となるエゴを否定、あるいは理想の名の下に正当化していくうちに、同志殺しに至ってしまった「総括リンチ事件」。これをきっかけに、多くの人々が純粋性やストイシズムの追求、そして他者と連帯して理想を求め現実を変革しようとすることを忌避するようになり、なしくずしの現状容認と個人主義的な自己肯定に、一気に傾いていった。
しかしゴジは、この成り行きによって、却ってこの事件を映画化したいという気持ちを固めたようだ。
『濡れた荒野を走れ』のセカイ系的な感性からスタートしながら、『青春の殺人者』『太陽を盗んだ男』と、個人の(暴力を含めた)自由とエゴの、丸ごとの全肯定へと向かうようなその後のゴジの道程。それは、連合赤軍事件を踏まえての彼なりに誠実なものだったはずだ。
しかし、その後30年近く、彼はまだ『連合赤軍』を撮れないでいる。
太陽を盗んだ男』には、ジュリーが人々の遊ぶプールにプルトニウムをばらまき、大量虐殺する自分の幻想を見るシーンがある。
ゴジは「原爆を作っておきながら、はっきりと人を殺すシーンを撮らないのというのはずるい気がした」ので、このシーンを付け加えたと語る。
誠実な態度だと思う。
その誠実さの反映のように、ジュリーはプールに浮かぶ人々の死体の中に、自分自身の姿を見る。
けれどこれは、無邪気に暴力を振るっていた人間が、その結果に向かい合ってしまった途端、自分を支えきれずに、暴力を内向させてしまった描写でもあるだろう。
ジュリーの暴力には「他者」もなければ「社会」もない。彼は、他者と向き合う中で暴力を意識的に意味づけ、背負い、制御する過程を踏まず、ただ漏れ出させてしまっただけとも言える。
「お前が殺していいたった一人の人間は、お前自身だ。お前がいちばん殺したがっている人間は、お前自身だ」
文太演じる山下警部は、ジュリーを否定する。
しかし、ゴジは彼の主人公を否定しない。
映画のラストで、ジュリーは戦いの結果、彼にとってある意味ただ一人の人間だった文太を失う。
原爆製造中に被爆したために、彼自身余命いくばくも無い。
それでも彼は、「それがどうした」と言わんばかりに、抜け落ちる髪を吹き飛ばし、チューインガムを噛みながら、雑踏の中で一人原爆を爆発させる。

ゴジの映画は、いわゆる通過儀礼的な成長物語にはならない。若さゆえの反抗とその結末の苦い挫折を描く、いわゆる「ニューシネマ」「アンチヒーロー」的なものにもならない。ゴジ自身がはじめから、社会の中に自分の落としどころを見つけようとしていないからだ。むしろ決着を先送りにし、とことん粘り続けることにだけ、全力を注いでいるからだ。

「『連合赤軍』にはそういう逃げ場が無いんだ。「NO」と言って石を投げた。気持ちが良かった。でも石ではボコボコにされてたまらないから火炎瓶を投げた。最終的には銃を持って蜂起しようとしたが、外へ撃つ力も無くて…自分たちを殺した。最低の阿呆ですわ。こいつらには「悪いのは国家なんだ」という言い訳も、「レッツ・ゴー・ホーム」と泣いて帰る家も無い。逃げ場も出口も無い話に、映画だからこそつくれる「出口」を見つけたいんだよ、おれは。ま、それは「人間て、いったい何なんだ?」という疑問と興味に尽きるんだけど…」(『おれたちの世代の戦争映画をー映画『連合赤軍』のために』文藝00年秋号)

彼は社会や日常に後戻りすることが出来なくなった人間だけを追い、後ろ盾や大義名分を持たない、誰のせいにもできない孤独だけを描く。笑ってそれを貫くことだけが、本当のロマンだというように。

 

●青春に閉じ込められた男

ゴジの師匠に当たる今村昌平をはじめ、戦中から戦後にかけての世の中の「手のひら返し」を青年期に経験した世代。彼ら「尖った」映画作家や文学者の多くは、戦後民主主義の社会や道徳といった上っ面の規範や枠組みを切り離した、性とか本能とか無意識とか土俗といったものの中に、本来の人間性を見ようとし、追求してきた。そして、それを社会に突きつけることで、暴力を隠蔽した戦後のカマトト振りを逆撫でしようとした。
ゴジは彼らの姿勢に影響を受けつつも、インテリの観念や底辺の人々の土俗風習といった「よそからの借り物」ではなく、自分自身のナマの本音を社会にぶつけると同時に、その本音とは何なのかを追求しようとした。けれど、その自分や本音も、彼自身自覚しないうちに、本当は生まれ育った時代や環境に規定されてはいないだろうか?

ゴジは昭和21年生まれ、団塊世代の1年年長にあたる。戦後の民主主義教育を受けて育った最初の世代だ。だが、彼らの親は戦前に自我を形成した世代。まさに「貧困」や「暴力」は当然の前提であり、その中で生きていく上で、連帯や公を当然のこととして受け入れ、生きてきた世代だ。
彼らと、その後の親子共に豊さの中で戦後教育を受けている世代とでは、ジェネレーションギャップの意味が全く違う。しかも敗戦によって、ゴジの親世代にとっての「前提」が(表向き)根こそぎ否定されてしまったため、現実にそれが(必要も)消えて無くなったわけではないのに、公式見解としては打倒されるべき旧弊な習慣の残滓ということになってしまった。
大人たちは現実を体現する壁ではあっても、それを正しさとして掲げて彼らの前に立ちはだかることは出来なかった。だから、現実の力関係においてはともかく、大義名分においても実感においても、ゴジたち若者は本当には挫折していない。引き返す理由が無い。
そうして彼は青春を貫き、また、青春に閉じ込められた。

しかし、時代は変わる。
「若いこと」「新しいこと」が無条件に正しいと信じられた彼らの時代は遠く過ぎた。
映画もまた、回顧とリメイク、あるいは緩やかな現状肯定に埋め尽くされている。
今では誰も、ゴジのようにリスキーな徘徊を求めない。
自分の自由と安全とわがままが社会に守られることを、はじめから当然だと思っている人々の心を占めている望みは、「現状維持」であり、「損をしない」ことであり、「落ちこぼれない」こと。そして、ここから導かれる最大の規範は、「他人に迷惑をかけないこと」だ。そして、不利益を被るような冒険をわざわざ求めるようなヤツはバカだと誰もが断ずる一方、ほどほどに不真面目な自分はフツーなのだと正当化する。
彼らは、自分のエゴや暴力をそれと認めないまま、社会に認められた正当な権利として主張しようとし、同時に他者のそれを制限しようと、社会規範に照らした揚げ足取りに血道をあげる。
そして皮肉なことに、「暴力を認めたくない人間の、正当化された無自覚な暴力」という意味で、こうした現在の欺瞞のあり方と、ゴジの姿勢とは、相似形になってしまっているのだ。

人は人である限り他者を求め、社会を求める。そして、他者との関係には、抜きがたく暴力的な力関係が含まれている。そして、自他の暴力を個人で受け止め、肯定しきれるほど人は強くは無いのだ、と僕は思う。
だから、それぞれの暴力を制御し、律する社会規範、そしてそれを支える歴史や習慣や信仰や哲学の積み重ねという、個人を超えるもの、個人よりも大きなものを必要としてしまう。けれど、そうした人間観をいい加減にしたまま社会規範に依存し、なし崩しに状況に流されながらすべてを恣意的に処理しているうちに、誰もが自分の根本的な暴力性を忘れ、引き受けなくなっていることが、現在の不幸の根本にあると思う。

こうした「人間の弱さ」に対する認識を、ゴジが受け入れることは、正直かなり難しいだろう。(自分をはじめとする)人間の捉えがたい可能性を、簡単に見限ることの出来ない彼だからこそ、「みんなもっと、とことんわがままだっていい。そうできるはずだ」と、信じ続けていくことだろう。
「わがままをとことん肯定したい」、つまり「他者のわがままを受け入れがたい自分の「弱さという暴力(エゴイズム)」を認めたくない」。ゴジに欠けているものはおそらく、野放しの人間性というものを受け入れがたいと意識させられるような、具体的な怒りや悲しみ、そしてある種の断念の体験なのだろう。そんな彼が、革命の理想を怨恨やコンプレックスで歪めたとして同世代から切り捨てられ続けている森恒夫永田洋子を、『連合赤軍』の中で肯定することが出来るだろうか?
彼のこうした愛すべき「無垢な信念」は、自分の見ようとしない現実を、無自覚に切り捨てる欺瞞を犯し続けるだろう。
僕はこうしたゴジの姿勢を、間違っていると言わざるを得ない。

けれど、同時にこうも思う。
人は、「ありのままの現実」をただ受け止め、納得出来るほど強く、また謙虚になれるものだろうか。
一方でそう出来ると考え、出来ているつもりになることが、実は傲慢で最悪な間違いなのではないか。物事を「客観的」「ニュートラル」に捉え、他者に心を開けと、自分の暴力と保身とを曖昧に正当化しながら、どこでもない場所から人を裁き、ツルツルの正論を語るような者こそ、信用ならないんじゃないか。
が、それでも尚、「正義」や「意味」や「普遍性」を追求する努力をいらないと言えるほど、僕は傲慢にはなれない。そして、それを暴力的に維持する必要悪としての「社会」を担う大人であることを、誰もが忌避し、他人事のように否定するようになってしまったことが、この現在を覆う欺瞞の根本原因だとも考える。
けれど敢えて言えば、その上で尚、それぞれのはみ出し方、葛藤のあり方こそが人間の個性であると思うし、最終的に僕はそれしか愛せない。
そしてだからこそ、ゴジには自分の個性をただ個性として、わがままをわがままとして、引き受けきって欲しいと思うのだ。

映画『連合赤軍』において、ゴジは超常現象や宗教的体験によって、連合赤軍メンバーの行動を救おうとしているとの噂を聞く。
「冗談じゃない!」と思う。
それが、この「現実」に代わる、「もう一つの真実」として、人々を納得させ得るものなのか、それとも「幻想」に終わってしまうのか、そんなことは僕には(誰にも)分かりようが無いし、正直言えばどうでもいい。
ただ、そんなものにきれいに収まることを救いだとし、納得してしまうのは、ゴジの堕落であり、自己否定でしかないと思う。ゴジはどこまでも納得などせず、決着も付けるべきじゃない。
「時代」や「環境」といった、他者や外部要因によって、「自分」が形作られ、規定されているという諦めを拒み、個人の意志にこだわり続けた彼がたどり着いた結論が、外界のノイズや自分の中の矛盾を除去した頭でっかちな「観念」だったなんてお寒い結末を、到底受け入れるわけにはいかない。ゴジが守り通すべき筋は、自足や納得を拒否し、何にも縋らず決着も付けない覚悟だけだろう。それが、いかに「人の弱さ」という現実に反しているか、そして、その結果彼自身が生きる手がかりを失って、ただ茫然と立ちすくんだまま、無為と惰性の時を重ねてしまった「事実」まで、丸ごと引き受けて。
「こうあってしまう(しまった)自分を言い訳なく見つめ、突き放し、同時にまるごと「かけがえのない俺」として引き受けることで初めて、自分を含めた現実と、それを受け入れがたい自分との間の葛藤に切実なリアリティが宿るはずだ。
「現実」に流されまいと30年、ヒモ生活に甘んじて、ひたすら「自分」にこだわり粘った挙げ句、若死にどころか既に還暦過ぎ。惰性で人生棒に振ったような、もはや格好の付きようのない始末の悪さも立つ瀬の無さも、全部開き直って叩きつけ、観る者すべてを唖然とさせるような映画にして見せて欲しい。
どこまでもゴジらしく、わがままに迷走する、「かけがえのない俺」の「かけがえのない映画」を、もう一度観たい。

(08年「パンドラ」vol.1SIDE-B)

 

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長谷川和彦論追補

https://bakuhatugoro.hatenadiary.org/entry/20080410/p2