電氣アジール日録コメント欄より

# bakuhatugoro 『右傾化に対する火消しっていうのは、ちょっと違うんじゃないか?
小林氏と浅羽氏の立場も、それぞれかなり違っているし。小林氏は右傾化から元に戻ったってよくある理解は違うと俺は思う。むしろ、はっきりと右が身体化したことによって、今の安定感とフレキシビリティが持てているように俺には見えます。
対して、浅羽氏や骸吉君は、情勢判断だけじゃなく、体質的に最終的に右(というか個我を越えた「大いなるもの」)に寄せない人かなとも。』


# gaikichi 『誤解を招きそうだが、火消しというのは短期的現象面の意味で、また思想が変節したという意味では無しね。とりあえず、左右上下とか関係なく、薬害エイズの時もそうだったように、付和雷同分子の暴走、プロ運動家化がうざい、ということでしょう。
よしりんは、素朴に土着の共同体やご先祖を良い物だと思おうとしてる人だろうから(お寺の子だし)、イデオロギー化しすぎたものには反発があり、郷里や祖国やご先祖は、よき民衆として日常生活を送りながら想うべきもの、と考えてるんじゃないかと。
一方浅羽氏は、今でも本気でアナキストの部分も残ってて、すべての人間が近代個人になれるわけはないが、うっかり自我のある人間は自立しろ、その足場として自分を生かしてきた下部構造とその歴史的蓄積を軽視するな、だがそれに安易に依存もするな、ということではないかと。
だが、若くイ未熟な人間がいきなり自分の外の「大きな物」を観念化しそれにすがろうとするのも繰り返される話、そしてその都度、調整役も必要になる、と――』


http://d.hatena.ne.jp/gaikichi/20041016


火消しはいいんだけど、「自立しろ」「己を直視しろ」っていう掛け声だけでは、最終的に人が生きていく軸には成りえないんじゃないか。
付和雷同分子云々じゃなく、俺たち自身にとっても。
同世代の楽観的な価値相対主義を批判的に検証している浅羽氏でさえ、自分を超え、律する「大いなるものを」、いつも相対的にしか設定していないと思う。だから最終的に、彼の本を読んでいると、点取りの終始決算にすべての価値を還元しているような不毛さが、どこか付きまとう。
小林よしのりは「共同体やご先祖を良い物だと思おうとしてる」んじゃなくて、その中での理不尽や葛藤も含めて、「良い物だ」という体感、少なくとも愛おしむ思いが、まず最初にある人だと思う。戦後的、近代的な相対化の方が後で。それが、下のエントリーでの福田恒存の引用http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20041004のような、人間を超えた「大きなもの」を信じる、糸口になっているんだろう。
確かに、俺たちが自分の間尺で「大きなもの」と言ったとき、それを性急に求めると観念的なものになってしまうし、観念的な理想との距離や葛藤を欠いたままで、同一化しようとすると、危険で不健康な熱狂が生まれる。そのことへの生理的な反発や危機意識に関しては、浅羽氏は非常に強く持ってる人だと思う。
ただ、性急にそれを取り戻しえないとしても、「大きなもの」への信が欠如している不安定状態への自覚(それはそのまま、自分の個我の限度への謙虚さにもなると思う)と、現実との緊張感を失わない信仰心の在りかたの模索は、本当に何よりも必要だと思う。
浅羽氏は、そこで自分の資質、役割を「ツッコミ」と規定しているのだろうけれども、そこの順序を間違えちゃいけないと思うし、「わかっていること」の価値に何より重きを置きがちなインテリの常(現在、物を言う人の多数派の感覚)に対する懐疑を、まず忘れるべきでないと思う。