笠原和夫の遺作


笠原和夫最晩年の未映画化シナリオ『仰げば尊し』を読む。
昨年、笠原真喜子さんに取材した時、自腹で映画化権を買い取り、一度企画が流れた後も自身で監督するプランを持っていたとの話を伺っていたし、『昭和の劇』でも「僕は本来、こういうのをやりたかったんですよ!」と語られていたので、ずっと興味のあったシナリオ。



主人公は英文学を学んで大学院まで出たものの、敗戦直後でまともな就職口がなく、教員不足のどさくさの中、石川県白山の山奥の小学校の先生になる。『青い山脈』や『二十四の瞳』のようなフォーマットに、『坊ちゃん』のような都会からやってきたマレビトが、田舎の世間をかき回して活性化させる物語という要素が加えられた感じか。
そういう意味では、やくざも警察も癒着しながら身内ノリで回ってる田舎世間が、近代化によって解体、断罪される『県警対組織暴力』と調度AB面ともいえるけれど、こちらには『県警〜』的な悲劇の強調や告発調は無くて、むしろおとぎ話的に綺麗にまとめつつ、その中で笠原なりの理想が語られる趣。
とはいえ、背景の構造の掘り下げはやはりしっかりしている。
「いとしげにィ」といったのんびりした方言が、伝統と自然、そして実態的な共同体のつながりに溶け込んだ風土と人情。
その中で静かな諦念をベースに淡々と生きる人たちは、それゆえに日常の中での立場の強弱や、状況の大きな変化に対しても受身、無力で、地域の統廃合によって被る地域の子供達の不利や差別に対して、先生達はその後の保身のためにただ口をつぐんでいたりもする。
これに対して都会から来た近代人=トンパチな主人公が反抗し、統廃合後町の子供から勉強が遅れないように、課外授業で英語を教えたりする。それが「坊ちゃん」のように、薩長の隠喩だった赤シャツ達の世間に江戸っ子がぶつかって孤立するような話にはならず、田舎の人たちもまた、そうした彼の自由さをどこか眩しげに見ている。ここが戦後的とも言えるし、漱石と笠原の個性の違いが良く出ているようにも思う。



中でも象徴的に描かれるのは、彼と互いに淡い恋愛感情を抱いている女教師で、主人公には黙っているが、彼女にはさらに山奥の分教場に赴任し離れて暮らしている夫がいる。彼がまた、非の打ち所のない朴訥な善人なのだが、学生時代画家志望で、戦争もあり断念せざるをえなかった過去のある彼女は、都会の風を感じさせる主人公にどうしようもなく惹かれる(こうした「個人」の心情の生々しさが「古典」にはない笠原らしさでもあり、しかしそうした自己都合だけをそのまま拡大させ、破綻させたりはしないバランスもまた、笠原らしいところ...)。



一方、主人公の方も、夕陽をあびる白山の自然を背景に阿弥陀経をそらんじる子供たちを、「神々しいまでに美しい」と思う。



こうした、原日本的なものと、近代の風の幸福な出会い方、言い方を変えれば戦後にあった原初的な希望にもう一度立ち返るという意図が、この脚本の底流に流れている。
実際にはこの後、工業の発展と共に人々は故郷を離れ、村々はどんどん過疎化して消えていき、共同体は解体し、経済万能と根を失った個人主義の社会を人々は選んだわけで、この話は近代が共同体を壊さない程度にまぶしく、希望として感じられていた時代で終わっている。つまり、今から見ると一見「良い所取りのノスタルジー」と見えてしまうところはあるかもしれない。
けれど、伝統も進歩も、それぞれを固定した結論として捉えず、それぞれの美点と意味を自覚しながら大切にしていくという姿勢は、本当は「今こそ」重要だと思う。「ここが調度良い」なんてことはいつだって自明なんかじゃないんだから、本当は何度だって振り返り、やり直していいはずだ。



子供達の現実を前に、両者を止揚しようとする主人公は、形式主義的な建て前でそれを抑えようとする周囲に対して、「だいたいなんですか、卑劣だとか不道徳だとか無節操だとか。人間はみんな卑劣で不道徳で無節操なものです。教師だってちっとも変わりませんよ!」と言い放つ。
そしてラスト、彼は子供達に向かって「君たちこそが僕の教師だった」と、「仰げば尊し」を歌う。
笠原以外ならば、なんて楽観的で無責任で、世間に媚びたセリフだろうと思うところだけれど、一方で「天皇陛下万歳とか民主主義万歳と言ってれば、あとは何をしていてもいいという...自分自身が一番語らなければいけない部分を全部お上に一任しちゃうんだから。これほどアナーキーなものはない。この辺が欧米とは決定的に違う。この楽天的なアナーキズムというの、自分の中にも感じない?」(高橋伴明との対談より)といった認識と常に向き合っている彼の言葉だからこそ、額面じゃない二重性と重さを感じさせられる。



笠原は、野放図な個人の行く末にそのまま共感し追うような脚本を書くことはできなかったし、それは確かに彼の限界ではあったけど、一方彼の「自由」を過信しないが手放さない葛藤とバランスの中からしか、この脚本の美しいリリシズムは生まれようが無いとも思う。



「今こそ」映画化される意味があるシナリオだと、掛け値なく思った。