エンター ザ パンサー ライブ イン 2003

bakuhatugoro2004-08-14



http://www.vap.co.jp/etpl/index.html


http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B0002ADJA6/qid=1092389774/sr=1-1/ref=sr_1_10_1/249-6507443-3150710


去年のショーケン復活LIVEがDVDになった。
http://d.hatena.ne.jp/bakuhatugoro/20031118
正直言って、これは初心者、あるいは往年の彼しか知らない向きにはかなり難解な内容だ。
しかし、とにかくこの状態でLIVEやっちゃう、そしてDVD出しちゃうところ、いろんな意味でスゴイよ!
声はすぐに裏返るし、体の自由は利かない(足の疲労骨折の後もいくらか引きずっていたのだろうけれど、あの動きの「固さ」はちょっとそれだけでは説明がつかない)。
しかも、それは単に加齢のためというのとは違う気がする。
ほんのここ数年での急激な彼の衰えようには、かなり不自然なものを感じる。

ショーケンは固有名詞好きの、ナイーブで感受性の鋭い、車を運転するにもかかわらず、明治通り靖国通りも区別のつかない方向音痴というか、無邪気なドライバーで、音楽的才能は凡庸だが、役者としては、才能のある監督に恵まれたなら、ジャン・リュック・ゴダールにおけるジャン・ポール・ベルモントほどの表層あんちゃんとしての映画的肉体を、しなやかにスクリーンに定着できたかもしれないし、できるかもしれない。すなわち、彼は、いささか古風なのだ。古風でナイーブな、傷つきやすい大酒飲みの、どことなく甘えた愛想の良い凶暴さを持った動物のようなあんちゃん。ジュリーのように暗い物語を深層に持っていると匂わせることで、阿波踊り的な土着性を芸能界の伝統のきらびやかな表層としてまとうのではなく、郷ひろみのように、からっぽなヒンヒン声をフリオ的甘美さと錯覚することを自分自身で信じてしまうのでもなく、近藤真彦のようにニキビと精液の濃度を誇示するのでもなく、その他の様々な流行歌手のように、マイ・ウェイ的歌一筋を貫くのでもなく、芸能界という、山口百恵ボキャブラリーで言うならば虚構の世界、本当の私というのもが、無数の演技やコスチュームによって出来てしまう別の私によって、ともすれば見失われてしまいかねない世界で、ショーケンは、本当の私など最初から、ありはしないという凶暴なあんちゃんの顔をしていたわけで、そういうものこそが、役者の表層的な個性というものであり、肉体的知性というものであり、それは、今や、古風なものと思われがちだ。
ショーケンは、ズボンのファスナーから親指を突き出してみせるように、内田百輭やらアラン・レネやら、サタジット・レイやら、ジャスパー・ジョーンズやら、ナジャやら、芥川龍之介やら、他にも、知っているからと言って不思議ではないのだが、少し意外性のある固有名詞を口にしてみせ、口にした固有名詞には、サイコーだね、という言葉が付け加えられるのだが、そうしたことに、彼のファンは涙ぐんだりすべきではないだろうし、勉強していると感動すべきでもないだろうし、同じように、マリファナ所持とやらで警察につかまり、あっさりと反省したばかりか禅寺に修行のためにこもったということにも腹を立てたり、がっかりしてはいけない。ありもしない牙をあると思うのは、ファンの勝手というものだが、それを、マイ・ウェイ的芸能人の行動と誤解してもいけない。どうでもいいことなのだ。


金井美恵子「アイドルはどこへ、あるいは、ショーケンはマイウェイを歌わない、だろうか?」より

例えば、この引用を含む一文を「スタジオボイス」84年3月号に寄せていた彼女は、今のショーケンをどんなふうに見ているのだろうか?
今読み返すと、80年代的な表層主義信仰の模範解答のようなこの文章で、金井さんがプラスの意味を付与して「古風」と呼んだように、内面や物語を保証にせず、嗅覚と直感と反射神経だけで突出した存在感を持ちえたのがショーケンだとも確かに言えるけれど、しかし、同時にたとえばムッシュあたりのように我の「薄さ」そのものを、軽みや洒脱さとして個性とするような存在だったわけでもない。
例えば勝新のように、きっぱりと堅気と切れた芸人の伝統の中で守られていたわけでもなく、あの声帯の細さがそのままヴィヴィッドさに繋がっていたようなカン高いハスキーヴォイスのように、それはどこかナイーブでエキセントリックな危うい緊張感に支えられていたし、そこから生まれる振幅を当時の若者は(そして、後追いの俺達も)「リアル」と感じて支持した。
そうした客のナルシズムを含む支持の追い風の中で見せる調子づき方が一層彼を走らせ、甘えそのものがまた甘やかな魅力にもなっていた。
「思い込み」の振幅が古風なストイシズムの方に振れた時、歳をとり始めた俺達は、また軽くなりきれない自分達を彼に重ねて安心した。
激しく「はまって」は揺り戻す繰り返しの中で、もともと頑丈じゃない、直感はともかく「思考」の方は実は少しも軽妙じゃない、意識的な融通なんて元々持ち合わせない彼は屈託し、意固地さを強めていったように思う。
彼の「リアリティ」をこそ支持したのなら、この後戻りできないことのリアリティまで引き受けなきゃね。


プラスのカードが全部マイナスにひっくり返ってしまったような現在の彼に対して、残酷を自分の中に引き受けて突き放すのが、金井さんのような人にとっての筋なのかもしれないけれど、俺たちは彼の「難波節」にも酔いしれてきたわけだからね。
彼の、そして、支持せずにはいられなかった自分達のみっともなさも含めて引き受けるのが、俺たちにとっての筋だ。
敢えて言えば、それが俺たちの「ロック」だよ。


この期に及んで「不況に苦しむ団塊の世代を励ます」なんてショーケンのお題目は、自身の逆境を直視できないゆえの、みっともない自己合理化でしかない。
あのライブ定番の「土下座」が、ナルシスティックなポーズでしかないように。
けれど、そうした甘えも、「心無さも」、昔からなんだよ(笑)
そして、そんな人間らしさを、俺たちはちゃっかりとクールに、楽しんでもきた。
こうなったら全うするだけだよ。
俺は反省なんかしない。
だからショーケン、あんたも今さらしおらしそうな顔なんかするな(どうせ本当にはできやしないんだから)。


そんな俺が、このDVDにただひとつ不満があるとすれば、あの初日、オールスタンディングの渋谷AXの、オヤジたちの熱狂が収録されていないことだ。


現在、各ショーケンファンサイトのみなさんが、合同で特設サイトを立ち上げてDVDをプロパガンダ中。
http://www.geocities.jp/hagiwara_kenichi/
DVDに足りないものは、こちらで補完しよう!