神代辰巳×萩原健一覚え書き

「がらんどうの妄執」

「神代×ショーケンコンビ」の最高作だと信じる『アフリカの光』をはじめて観た時、内容も感想も、到底簡単に整理して伝えることができず、とにかく引っかかりのありそうな友人、知人に片っ端から薦めて廻った。
雪に白く閉ざされた冬の羅臼の風景の中で、虫けらのように這いずり廻るショーケン田中邦衛を観て、同年代か年長の男性陣の多くは、一様に身につまされた表情でぐったりし、逆に年下の女の子たちは屈託なく爆笑した。
そのどちらが正しいとか、深い見方であるとか、偉そうに見解を述べるつもりはないし(いや、正直言うと、女性達の屈託のなさに、ナイーブな野暮天の自分は少し腹を立てたりもしていたが…)、誰よりも当の神代辰巳自身が、そんなことにはまったく無関心だったろうと思う。

神代辰巳の映画の多くは、登場人物の過去や行動の動機といったものが、説明も描写もまったくされない。
『しのび肌』での芹明香の有名なセリフ、「男と女にゃ、アレしかないのよ、バンザーイ!」じゃないけれど、ただ行為だけがゴロンと放り出されるだけ。
仮構された物語ではなく、キャラクターやニュアンスで見せるタイプの映画も、或いは鬱陶しい自意識を厭うて馬鹿と無意味とナンセンスを志向する「キッチュな映画」も、現在ではいくらだって転がっているけれど、それらと神代の映画は、どこかが決定的に違っている。
彼の威光を杖にして安直に現在を叩くつもりはないし、違いの根拠を「戦中派のニヒリズム」といった神代の世代背景だけで説明しきれるものでもないだろう(勿論、影を落としていないわけがないし、戦争中の旧制中学時代に女を孕ませてしまい、彼女の死産の報せを聞いて「バンザイ!」を叫んだことなど、彼の背景に興味は尽きないが)。
しかし、彼が撮り続ける「無為」や「無意味」の、「そうせざるを得ない」というよりも「そうなってしまった」という風情に、何か取り返しのつかない一線を踏み越えてしまった人の不穏さを感じているのは、決して僕だけではないはずだ。
『アフリカの光』に対する女の子達の笑いさえ、己を弁解し正当化せずにいられない「堅気」さんの(いや、まともに堅気をやるだけの含羞も実直も持たない我々半端者の)いじましい自意識などからは遥かに隔たった、「どっちにしたってなるようになるし、なるようにしかならない」と達観したかの、底の抜けた突き抜け具合に、いっそ安心して距離が取れる(そして、身を委ねられる)からこそ生まれている気がする。

神代辰巳の映画は、「現実をそのまま描写する」ことにさえ耐えられない。
「何かない?」と、役者たちを質問責めにして、リアリズムや自然体を志向する人間からすれば、一見わざとらしい思いつきにしか見えないような奇妙なしぐさを引き出そうと、執拗に粘る。「こうでもしなけりゃ間が持たない」とでもいうように、フテた子供のようなトボトボ歩きやデングリがえりを、最低限の物語の繋がりさえズタズタにしてしまいかねないくらいに、ダラダラと撮り続ける。
無為と退屈の中で、アクビのように出てくるものだけを拾い、それがいつか、まさに「それしかない」ような生理そのものになることを待つように、執拗に長回しを続ける。
勿論、そのすべてが実を結んでいるというわけじゃない。
が、背景の肉付きの無さゆえに、ペラペラな紙芝居のようになった失敗作にも、むしろその、ちょっとありえないような極端な失敗ぶりの中にこそ、不穏なものを感じずにはいられない。
あの、深酒で目が黄色くにごり、真っ黒な歯を見せながらニヤニヤしていた、垢だらけの風貌のように。

僕ら凡人には、俗世を超越した「世捨て人」のようにさえ見える神代は、一方で律儀なくらい一貫して「文学青年」だったという。
「俺をクロサワやオオシマのようにしてくれ!」と、あられもなく権威に固執したとも聞く。
彼は、欲やパッションに欠けたタイプの人間ではないし、ましてや「枯れた自然体の人」などでは決してなかったと思う。
けれど、現実を物語に見立て、意味を見出そうとコミットした瞬間「トカトントン」と乾いた音が聞こえてくる。含羞が彼を無為に閉じ込める。生きるのも死ぬのも大袈裟なのは恥ずかしい。だからシレッと図々しく生き延びる(或いはあっけなく死んでしまう)。だけど、生きていくのもタダじゃない。無為にしか生きられないなら、「アレしかない」のなら、アレにとことんしがみつくしかない。無為に値札を付けて銭に替えるしかない…。
そこに意味なんか無かろうが、むしろ意味にたどり着けないような自分だからこそ、ただ無為の中で役者たちを愉快に踊らせる。

けれども、彼の「がらんどうの妄執」は、何故かいつも不思議に明るい。
この世を繋ぐ意味の連なりから、心が脱臼したまま宙吊りになっていても、穴の開いた肺で、時には車椅子に酸素ボンベを括りつけ、今日も明日も当たり前のように撮り続ける。良かれ悪しかれ、ある生き方を徹底させ、形にまですることのできる彼の「強さ」が、彼の映画の明るさを支えている。

「本物の青春の困惑」

多くのファンの顰蹙を覚悟で断言すると、周囲の思い入れはどうあれ、ショーケン自身は「シラケ世代の象徴」でも「反逆のカリスマ」でもなく、終始一貫「天然のアイドル」であり続けている人だと思う。
アイドルであること、あり続けることを許された、稀有な「本物」だったと思う。
仕事への野心的な取り組みや、表現への異常なほどの集中力、偏屈な頑固オヤジを思わせる最近の身構えの頑なさといった、アイドルと呼ぶにはあまりにも不似合いなストイックな相貌も、どこか彼自身の過剰さに溺れ込んだ、制御不可能で瞬発的なものであり、いつもアンバランスな不穏さが匂う。
流行の最先端も、重厚な王道も、まるでサンダルでもつっかけるように乱暴に着こなして(着崩して)しまうよう反射神経と不遜さを持ちながら、一方では、芝居っ気が透けて見える浅はかな嘘や媚態を度々晒してしまうような、奇妙に不器用な不安定さ。
「無意識過剰」でありながら「自意識過剰」。
彼の根っこは、今もどこか「少年」なのだと思う。

僕たちは、彼が演じるものを、フィクションとして冷静に楽しむようなやり方では観てこなかった。
彼が一方で、音楽で「自己表現」する人だったせいもあるが、彼が演じるものは、僕たちにとって、どこかいつでも彼自身だった。
「俺たちのショーケンへの思い入れは、おっさんたちが裕次郎健さんを懐かしむのとは違う!」と語る先輩たちに何度も出会ったし、自分自身、『傷だらけの天使』なオサムや『祭ばやしが聞こえる』の直次郎を、どこか彼自身のように思っていた。
僕らは彼自身に、いつも現実の間尺に収まりきらない「ホンモノのワガママ」や「純粋さ」を求め、憧れると同時に、自分を重ね共感しようとした。
甘えや無分別が、それ自体「可愛らしさ」として受け入れられていることを、半ば無意識に知っている少年が体現する自由の輝きを、他者への深い諦念から生まれる配慮、洞察、優しさを身につけた神代辰巳工藤栄一といった監督たちは、自身は「大人」を引き受けつつ、それがいつか必ず敗れていくものだからこそ愛しんだ。
しかし、そんな彼らももういなくなってしまった。

時代は流れ、「大人になる」ことは必ずしも是とはされなくなり、僕たちはいつまでもはっきりと敗れることはなくなった。そんな変化の中で、「はみ出すことの意味」も「敗れることの意味」も失った彼に、それでも僕らは「ショーケン」を求め続けた。
「瞬間」でしかあり得ないようなものを永遠に求め続けられることから、彼は必死に身をかわし、安全圏からのムシの良い期待を裏切ろうとした。
いわゆる「演技派」としての良い仕事も、ある時期までは確実に重ねていた。
しかし、彼の資質と取り巻く状況は、「名優」や「当たり前の大人」といったものへの穏当な成長を、結局彼に許さなかったようにも見える。
彼は、今また、空回りを続ける手負いの少年に戻ったようにも見える。
そして、多少過剰な思い入れを込めた言い方をさせて貰えば、それは結果的に、ショーケンショーケンでしかあり得なかったということだとも言ってみたい。
どこまでも行き場を見つけることの無い、彼が抱えた本物の困惑から生まれるものを、その行く末がどこであろうと、彼に勝手な共感と思い入れを託し続けてきた僕は、ずっと見続けていきたい。

「映画時代創刊準備号・特集・神代辰巳×萩原健一」(08年5月)