「ショーケン」という孤独

bakuhatugoro2009-09-14


http://www.tvlife.jp/news/090912_02.php

どうも、一つ前の日記では、きついことを書きすぎてしまったかもしれないと、ちょっと反省している。
阿久悠が、日本人の「含羞」と「節度」を丁寧に歌い込んだ「時代おくれ」を、ショーケンが自身の復帰と、世間向けの安易な衣替えのために、随分安っぽく利用しているように僕には見えて、正直カチンときていた。
いくらなんでもずうずうしいし、心無さ過ぎるんじゃないかと、この曲が大好きなだけに腹が立った。

ただ、ショーケンにこうした心無さを感じるのは、本当は今にはじまったことじゃない。

感情移入したものに対しては、他のものが一切目に入らなくなるくらいに一途に思い込むけれど、そうした不器用な無邪気さというのは、気が乗らないことには平気でそっけなく冷酷にもなる。だけど根は繊細で古風でもあるから、そういう自分を取り繕おうともするし、建前で大人ぶろうともする。そうしたふり幅の極端さの為に、本人が思い込んだ芝居は虚実を見失うほどに自在なのに、対外的な態度の方が余りにも芝居じみてて、心無いものに見えてしまう。対人関係の距離のオン、オフに「中間」がない。そんな子供っぽい不器用さが、時に冷たく不誠実にも、半端な小賢しさにも映ってしまうことがある。
長年思い入れてきたファンにも、時として彼という人間がよくわからなくなる。

それにしても、今のショーケンは見ていて辛い。
もともと繊細で、孤独癖のある人だと思うけれど、コンスタントに仕事に向かっているうちは、持ち前の生理の強さと情熱で跳ね返したものが、老いと不遇によって出口を閉ざされて、内向きに凝固しかかっているように見える。
わがままも魅力とまかり通らせていた上記のような振る舞いも、はっきりと欠点として浮かび上がってくる。
諸々の事が思い通りにならず、それが何故かを見つめたり考えたりすることもできなくて、激しい屈託をただ一途に飲み込み続けているような怖い顔になっている(不遇続きと難聴で気難しくなっている、実家の父の表情を思い出す)。
ただ、彼はもう一度役者として生きることを諦めていないから、一所懸命「柔らかく」振舞おうとするのだけれど、ちゃんと空気が読めているわけでもなく、振る舞いが自分の本心と完全に切り離されてしまっているから(つまり、目の前の人間なり、状況に向き合った上での「本心」が無くなってしまっているから)、一つ一つの言動が、端からは恐ろしく心無く見えてしまう。
孤独に向き合うことは時に大切だけど、あまり過ぎると飲み込まれて、逆に自分が希薄になってしまう。が、そんな今のショーケンも、気の置けない知人と話したり、犬と戯れたりしている時は、固まっていた目じりが下がって、一瞬、昔のあの八の字眉毛のショーケンの表情に戻っている。
ストイックな孤独の中で、屈託を懸命に押さえ込んでいる姿にも、ショーケンらしい不器用な一途さを感じるけれど、なんとか、もっと人の温もりに触れる時間を持って欲しいと思う。手に負えない頑固爺いになっているだろうけれど、そういうことさえ気にしない、大らかな人が傍にいてくれないだろうか、なんて、妙に男の母性本能のようなものを刺激されてしまう。

こんな逆境の中でも、彼の役作りへの熱は、まったく衰えていない。
歴史考証を読み込んで役に入り込もうとし、時代劇を「自在なファンタジーの為の舞台」と考える山本又Pとぶつかったりもしているが、テレビ画面で見ている限り、彼の情熱は事件前の空回りを一歩脱して、少なくとも演技の上では、しっかりと役作りの厚みに繋がっているように見えた。
そして、番組のラストに流れた『時代おくれ』。意外にも、これが良かった。
番組の印象との化学変化もいくらかあったとは思うけれど、歌詞の内容とは程遠い、恥と野暮とを重ねてきた過剰な男が、ヘロヘロのまま祈るように歌うこの歌は、原曲とはまったく逆のニュアンスを生んでいて、まさに「存在の悲しみを色気として」表現していると思う(一見さんには、ちょっと難易度が高すぎるかもしれないが…)。

何よりこうしたドキュメンタリーで、ここまであけすけな自分を晒して見せることに、逆に「必ず復帰してみせる」という、並々ならぬ覚悟を感じた(かつて、大麻事件の時、カメラの砲列を前に毅然と報道陣を見つめ返していた時のように)。
TAJOMARU』迷っていたけど、やはり彼を見届けに劇場に観に行こうと思う。