僕は育ちのせいなのか、生まれ持った資質のせいなのか、

うまく健全な庶民の世間とか共同体にちゃんと適応できないまま生きてきてしまったところがある。
まぁ、今風の言葉で言えば、要するにダメ人間ってことだが。
倉本ドラマを見ているとそこで描かれる人間観、人生観の中で「かくあるべし」というふうに反省されたりつきつけられたりしている問いかけが、そういう僕にはとても人工的でバーチャルなポーズと感じられるのだ。
あなたたちだって内心はもっと無意識に、融通を利かせて要領よくお互いを許しながらいい加減にしたたかに生きているだろうと。
例えば、『前略おふくろ様』を見て、僕がまず最初に持った感想は「おばちゃん達の世間話みたいな話だな」というものだった。
大半が色恋沙汰に対する話で、それを肴に盛り上がることを楽しんでいるくせに、自分だけは真剣に悩んでいるというポーズを過剰にとる、というような...
みもふたも無く言うと、「愚痴」を「相談」に、「噂」を「心配」、「あつかましさ」を「面倒見の良さ」とさらっと言い換えるような、内心のエゴにフィルターをかけて気持ちよく飲み込めるようにする「場の共犯関係」が、無言の内に強く働いている。
さらに倉本は、ストイックさを強調した打ち出しが受け手の不快感に繋がらないよう意識的にそうしているのか、それともモダンな金持ちの地金が覗いてしまうのか、実は結構ミーハーだ。
その時々の若者文化やアイドルを必ず組み込んだり、これは宮崎駿などにもよく感じることなのだけれど、自分の中の性欲や下心を「ポエム」なノリに転化しつつ、常に表現したがっているようなところがある(そのバーチャルさ具合が、またうまく庶民にとっては憧れというフィルターとして無意識に機能している)。
ストイックなことを言いながら、片方で平気でミーハーだとは何事だ!なんてことが言いたいわけじゃない(ムッツリスケベのエエカッコウシイめ、とは思うけど)。ただ、自分の中に、というか人間の中にあたりまえにある欲望や矛盾が、自分の思想や建て前を揺さぶることを恐れ、避けて、かといってそれをきっぱり放棄するような筋の通し方もせず、自分の思想の持ち方については全く反省せず合理化しながら、客との馴れ合いに利用してるよなあ、とは思うし、ズルイなあと思う。
そんな姿勢が、本当に「信じられるもの」を模索している(故にこそ疑い続けている)ような受け手を裏切り、「誠実」を看板にした馴れ合いを優先し合理化するために、実は彼等を排除しているな、と思う。


と、今でこそある程度距離をとってこうして言葉にまとめられるけれど、どちらかというと僕は自分の足場が頼りないだけに、こうした建前に過剰にはまりたくなる人間でもあったりする。(だからみんなが思い出を共有するように『前略〜』について屈託なく話し合えることに、一方で憧れや羨ましさも強く感じている。『前略』を見て板前修業を志した、なんて話を伺う度に、純でイイ話だなあ、と本気で思うし)
大半の受け手は片方で無意識に距離をとってしたたかな現実を送りつつ、片方で倉本ドラマに感動できることを互いに共有し、自然に酔いしれることもできるのだろうと思う。
だから僕はその仲間に入りたいと思って必要以上に建前を信じようとしたり、それと自分の内心との距離に罪悪感を持ったり、一方建前を建前でしかなくしているような庶民の現実の使い分けに腹を立てたりしていたわけだ。


逆に言えば、大まかに言って自分は倉本に似ているというのか、動機を共有しているところがあって、同時に庶民にも思い入れたり美化したりしながら自分と庶民との距離を意識して、自覚的に突き詰めたりする必要のないような、ある階級的なアイデンティティの安定感と、それをごまかしていることへの反発を感じているのだろう。