高田純さん


前回伺った際、高橋伴明監督と組まれた90年代中葉の佳作『不良』のビデオ、そしてお蔵入りとなってしまった80年代初頭の『唐獅子株式会社』のシナリオをお借りして、特に『唐獅子〜』の、東映任侠路線&実録路線への深い造詣と愛情を感じさせつつ、見事にパロディ(であると同時にオマージュでもある)化し、スラップスティックコメディにしたてた抜群の面白さで(後に曽根中生監督で映画化されたものとは全くの別企画、そして個人的には正直、あの原作「以上に」面白かった!)、これが何故お蔵に!?と心底驚き、一本の映画が形になることの難しさをあらためて身に沁みる思いがした。
正直、ここやブログに何度も感想を書きかけながら、シナリオ以前に映画批評も手がけられていた大先輩に「ビビッて」しまい、失礼ながら今日まで感想をお伝えできずにいた。
しかし、この際先日お会いした勢いで批評めいたことを書かせていただくと、高田さんの作品の良さは、いつも「複眼」的な視線の行き届き方にあるように思う。『唐獅子〜』にしろ、当時過去の遺物に成り果てていた仁侠映画のストイシズムや「男惚れ」の世界をきっちりとパロディとして対象化しながらも、同時にディティールの「肝」の押さえ方の確かさから、それらへの理解と愛着がしっかりと伝わってくる。また一方で、当時の若者文化、「跳んでる女」やニューミュージックを、こちらも見事にカリカチュアライズ。それぞれの時代、様々な文化を柔らかに受け入れ、しっかりと耽溺する豊かさと、それをコメディとして差し出せる批評性。さらに、それを「冷たい」ものと感じさせないフェアなサービス精神。
そしてその底流には、社会の表層がいかに軽く、優しくなろうとも、変わることのない暴力への自覚と、そこからしか生まれない「根のある優しさ」がしっかりと踏まえられている。 
プロフェッショナルであると同時に、ある意味我々オタク世代の先駆けのようなところもある方で、そういう意味ではこの『唐獅子〜』も、確かに「早すぎた」のかもしれない(とは言え、この懐深く気持ちのいいフェアネスは、ある世代以降には、確実に一般的に欠けてしまっているものだと思う)。
先日放映になった新作ドラマ「灰の迷宮」でも、イナカモノの線の太い生一本さと暑苦しい鬱陶しさの両面が見事に捕らえられ、端的に描出されていて、そうしたディティールがドラマにぐっと奥行きを与えていた。



しかし、この高田さんの「冷静」で「端正」、かつ「優しい」部分というのは、高田さんの強力な個性であると同時に、カセになっている部分もあるように思う。実はそれを『不良』に僅かに感じたのだ。
伴明さんの絵の方も『TATTOOあり』以降久々のヤサグレテイスト全開。昭和30年代の田舎町少年が、地元の有力者に関わる父親の汚さに反発してグレるも、そうした感傷など持つ余裕すらなく淡々と生きるヤクザや娼婦に触れての挫折や葛藤を描きながら、かつてのニューシネマのようにデスペレートな破滅や感傷を結論としないしたたかなバランスが90年代的に新しかったのだと思う。
ただ、当時「受け手」世代だった自分としては、正直、どこか自分達に対して「優し過ぎる」と感じてしまうところがあるのだ。例えば同時期の、たけしの『キッズ・リターン』、井筒の『岸和田少年愚連隊』などと並べた時に、「いかんともしがたくこうとしか生きられない」ことの覚悟と諦念とを、未だ自分と骨がらみのものとして叩きつけてくる彼らの「大人気なさ」にくらべると、どこか「解決した過去」として距離がとられていると思う(そしてこれは、自分の知る高田さんの作品群の中でやはり、『六連発愚連隊』を、僕が最も愛する理由でもある)。


ちなみに先日、近所のシネマアートンで高田さんと同世代作家である荒井晴彦氏の特集をやっていて、何度か足を運んだのだが、傑作と名高い『母娘監禁 牝』や近作『ヴァイブレータ』に、『不良』同様の、描写対象や受け手への優しさ、甘さを感じたのに対し、決して評判が芳しいとは言えない監督作『身も心も』の方に、より強い感銘を受けた。当初、先入観で全共闘世代の手前味噌でナルシスティックな企画だな(まったく片方で革命だの挫折だの大袈裟に騒ぎながら、旨いもの食って、酒ばかり呑んで、だらしなくヤリまくって、まんざらでもない顔しやがって、きっとこいつら本当に「独り」になったことがないんだろうな...とかなんとか)という先入観もあって、昔ビデオで観た時には決して良い印象を持たなかったのだが、今回観なおして、そうした「性懲りもなさ」をとことん突き詰め晒して、受け止めきった傑作であると確信した。自分はテーマや世代、登場人物にまったく好意も共感も持てなかったが、自分を育み取り巻く状況の「中途半端さ」や、いかんともしがたくそれと骨がらみの自分の生に、本気で途方にくれていることは伝わり、これには普遍性があると思った。
そして同時に、高田さんや伴明さんに、『恋文』や『六連発〜』や『唐獅子〜』や『TATTOOあり』のような、個性を全開に、しかししっかりと現在を睨み、叩きつけるような本気の作品を(それは決して「ストレート」な作風という意味でなく)、もう一度見せていただきたいと思っている。
「まだはじまってもいない」自分ごときが口にするのも本当におこがましい話だが、それを受け止める覚悟が現在の映画ファンにもあること、そしていつか高田さんたちと本気でぶつかれる書き手になる覚悟を決めるためにも、敢えてここに記しておきたい。