優しさの窮屈 寛容の無責任

bakuhatugoro2004-09-12

しばらく日記をご無沙汰してた間に、下の嫌煙の話にすごい数のコメントがついてて驚いた。
みなさん、ありがとう。
 

俺の中では、これと微妙に繋がってる話。
先日、深夜にテレビでマイケル・ムーアの『アホでマヌケなアメリカ白人』をやっていたんだけれど、これが俺にはまったく笑えなかった。


施設職員による虐待事件に対抗するために老人にカンフーを教えるとか、ポルノ規制を条例化したニューヨーク市長が愛人を作ってけしからんので市長のグッズを作ってポルノアイテムと同時に売るとか、ブッシュ兄弟が知事をやってる二つの州での死刑執行数をフットボールよろしく見立てて、執行日の刑務所の外でチアリーディングするとか、黒人が財布を取り出すのを銃と間違えて射殺したことを警察の妄想として、財布をオレンジ色のものに取り替えてまわる等々。


無力な人への虐待は悪であるにしろ、その原因をどう捉えてどう防ぐかとか、死刑の是非とか、子供へのポルノの線引きをどのあたりに設定するかとか、人によって意見や立場はいろいろだろうけれど、どれも簡単に定見を持つことができないくらい、微妙でシリアスな問題であることは確かだと思う。
けれどムーアはその都度それぞれの現状を「悪」だと断定し、はっきり特定の悪人を指差した上で、当てこすり的にギャグをかましていく。
そのギャグが、あんまり乱暴(というか雑)すぎて、笑えない。
 

事がシリアスすぎるとか、それをギャグにするのが冒涜的でダメだとか、そういうことじゃない。
例えば、死刑執行と共に、(ムーアたちの取材を揶揄やギャグだと気づかず)チアリーディングと一緒に盛り上がっている見物人たちには確かに薄ら寒い気持ちになったけれど、それは、その姿をあぶりだして見せること自体がムーアの意図なんだから、まあ仕方がない。ただ、目的はどうであれ、彼のやっていること自体もまた、冒涜的なことであることを、どう彼が自分の中で処理しているのか、といったことが気になる。
 

サタデーナイトライブでのジョン・ベルーシの人種差別ギャグとか、日本でもたけしの老人や土方のおっさんネタ、ダウンタウンの「キャシー塚本」(あれを見たフェミの人とか、内心どんなふうに受け止めてたんだろうな...)等々、冒涜的でブラックな笑いをずっと楽しんできた。
乱暴さにびっくりしたり、スレスレだなあとその都度微妙な気持ちになったりしながら、そのこと自体がスリルでもあって、芸人としての彼らの才気と度胸に敬意を持った。


そう、少なくともあの番組でのムーアは、度胸はあったけど「芸人」じゃなかったと思う。


ネタの処理にヒネりが無さすぎるとか技術的、能力的なこともいろいろあるけれど、彼らとムーアのいちばん根本的な違いは、人間がこうした諸々の難しさを抱え込んでしまうくらいに、性懲りもなく差別が好きで、そのために自ら面倒くさい諸々の矛盾を抱え込んでしまうようなものでもあるということを、大前提として認め、飲み込んでるってことだと思う。だから、そうしたすべてを「有り」として楽しみ、また自分達のしょうのなさを笑いのめすこと自体に躊躇がない。
けれど、ムーアにとってこれらのことは根本的に認めがたい、「無し」なことなのだ。


彼の目的は、そういう現実を変えることにある。だから、どんなにギャグで粉飾したとしても、本当は目が笑っていない。
「とにかくダメだ!」という結論は彼の中ですでに決まっていて、悪人や責任者もはっきり設定されており、それが思い切り図式的にわかりやすく提示される。
「黒人差別は良くないけど、貧民待を見回るのは警官だって怖いしミスもあるだろう。それに警官にだっていい人も悪い人もいる」 
「行き倒れに誰も声をかけられないのは単に冷たいってことじゃなく、一人で抱え込むとキリがなくなることを知っているからでは?」
といった受け手側の躊躇の余地は、キッパリ切り捨てられている。
「あるよなあ、しょうがねえなあ...」という諦念がベースに無いから、その上で、現実の洒落にならなさや、それに対する自分の感情との距離を意識的に調節して、「あり」なネタに仕立てようという意識がない。
そういう意味では、解説の爆笑問題も言っていたように、空気を読まないシロウトの暴走に似ている。


だから俺達は、捻りもなく笑えない、単にストレートなあてこすりを見せられて、彼の揶揄するところに対して同意を迫られているような窮屈さを感じる。乗れない者は、そうしたひどい現状を容認している当事者だと言われているような、ちょっと身の置き所のない気持ちになる。
もちろん、そうさせることがムーアの意図でもあるのだろうけれど、笑いが手段で目的ではないとして、じゃあどうしたいのかがどうも俺にはよくわからない。
単純に、みんなに優しくなって欲しいってことなのか。心情的には同意するけれど、いくらそう呼びかけたところで、本当に厚顔でエゴの強い人間が自分を変えるとは思えない。
いや、俺自身だって、自分に火の粉のかからないことだったらいくらでも善意や同情心を発揮したいけれど、危険や火の粉をかぶるとなると悲しいかな俄然事情が違ってきてしまう。 人種差別はいけないと思っても、在日中国人の犯罪が多いと聞くと怖いと思うし、犯罪の抑止や被害者の感情を考えると死刑(じゃなくとも、人が人を裁くということ自体、本当は乱暴で罪深いことだと思うが)反対とも言い切れない不甲斐ない自分がいる。
だから、こちらhttp://d.hatena.ne.jp/matterhorn/20040906の『華氏911』評をとても面白く読み、納得もしたのだけれど、身をさらすムーアの勇気自体は認めたとしても、それがそうした勇気も甲斐性も到底持たない弱い人間の存在を「無し」とした前提でなされているとしたら、やはり俺は乗れないなと思う。そういう距離を自覚するし、そこを考えずにたやすく乗れてしまう人を、怖いなとも思う(これって昔、獄中非転向を貫いた宮本顕治に、誰も頭が上がらなくなってしまった構図と、本質、何も変わらない)。


打ち出しがギャグなので柔軟に見えて、すでに方針が「無し」だときっぱり決まっているムーアには、こうしたぶっちゃけた内心の話が通じないだろうなと思う。
あらかじめきっぱり拒否されている気がする。
だから、弱くもあり、同時にそのまましれっと自己肯定しているエゴイストでもある自分達を引き受けて、その上でどんな生き方や社会を求めるべきか、という話ができそうにない。


そんなむずかしいことはいい、目の前の現実を見ろってことだとしても、例えば老人にカンフーを教えたところで、それが現実の虐待に対してまったく無力なことはわかりきっている。
ギャグを真に受けるなと言われそうだけれど、少なくともこの世に虐待が存在することは誰もが知っているし、それが悪いことだとも思っているだろう。
ムーアのやっていることは、
「これを悪いことだと、ちゃんと思え!」
「ほら、こんなに悪いヤツがいるぞ!」
と、わかりやすく煽ることにしかなっていない。
とにかく悪を叩けばいい!という、こうしたやり方だと、結局は自分の中の悪やエゴを認めない厚顔な人間の、自分を棚に上げた主張や偽善ばかりが幅を利かせたり、逆に自他のエゴに敏感な人間は窮屈に互いを縛ろうとしてがんじがらめになったり、という結果にしかならないと、これは経験的にも強く思う。
そこからは自覚と寛容が生まれないからだ。
だから、どんなに迂遠でも、俺たちは自分達の弱さや性懲りのない利己心を前提とした社会や道徳を考えなければならないと思うし、目の前の問題に対しては結果を考えない揶揄ではなく、具体的な対策を考えなければ意味がないと思う。
マイケル・ムーアは「ギャグですよ」という粉飾で自分の立場を誤魔化すのでなく、わかり易く煽った番組の最後には自分の定見を示し、具体的な運動を立ち上げ参加を呼びかけるくらいやったらいい、すべきだと思った。


多少、ムーアに対してだけ厳しい書き方になってしまっている気もするが、一方諸々の悪徳を含む現実の「有り」を前提とするブラックユーモアにも、「これがわからないとは頭がカタいな!」という脅迫が、結果的にはたらいていることが確かに多い。たけしやダウンタウンに対する周囲の反応に対しても、それは一抹感じてきた。
だからムーアの、人間のエゴや弱さを拒否したいために、性急で窮屈なことになっている感じにも共感があるし、まったくそれが無い人間よりも、個人的にはずっと好きだ。
にもかかわらず、やはり窮屈さゆえにギャグは面白くならないし、すべてを「有り」とするある種の「酷薄さ」から出た表現の方が、どうにも魅力がある、という現実にも逆いがたい(逆らいたくない)。それが、不満や恨みに凝り固まりがちな、自分のような出来の悪い人間にとって、ある種の風通しのよさを生んでいることも、また確かなのだ。


けれどまた一方、自分の現実を省みてみると、「人間いろいろあるもんだよ」という融通というのは、実のところ弱者や少数者に対しては(自分が安全圏にいる時ならともかく)なかなか適用されにくく、強者や多数の空気の中ではなかなか主張できないし、そんな自分を自覚する苦さを、合理化し流すための理屈になっていたりもしがちだ。
 

煙草の話にしろ、善悪を云々する以前に、自分と実感を異にするものを含む世界の広がりを「有り」とすることがまず大切だと思うのだが、「まあ、いろんな人がいるんだから」なんて曖昧に構えているうちに、あっという間に世の中が一色に染まってしまったようでもあり、それが何とも不気味だしやりきれない。