山田さんの「揺れ続ける」強さ

僕は40代半ば。このところ山田太一ファンであることを公言する機会も多く、『ふぞろいの林檎たち』など山田さんの代表作をリアルタイムで接してきた世代と受け取られがちなのですが、実はかなりファン歴は浅く、ここ10年あまりの間にCS、BS放送などを中心に、慌ただしく山田ドラマの多くに接してきました。

私見ですが、山田さんのドラマやエッセイは、現実の印象的な場面を巧みに掬い取るよりも、意識的な問いを立てつつ反語的なアフォリズムを積み重ね、思考や認識の厚みを時間をかけて得ていくという方法を愚直に重ねて来られた、という印象を持っています。
しかし、正直なところ、若い頃の自分はその作風が苦手でした。
難しい本など読まない人たちに囲まれた田舎に育ち、観念的に過ぎるものの考え方は、自分たちの現実とは関係ないとよそよそしく感じていたり、やや軽蔑していたのです。どこか山田さんの言葉や作品が、中空の建て前じみた立場から知識人が理屈でする、地に足の付かない思考実験のように感じられていたのです。
きっと(学校秀才のように)頭の良い、進歩派のインテリのような方なのだろうと、勝手に思い込んでいました。
たとえば、『男たちの旅路』第三部第一話「シルバーシート」。僕の小学生時代にあたる時期に放映された作品です。殿山泰司笠智衆加藤嘉藤原釜足といった名優連演じる老人たちが、今では衰え役立たずになり世に顧み等れなくなった自分たちのやるせなさを訴えるという内容でしたが、当時の老人たちが饒舌、積極的に、自分たちの立場や内心を主張するということが、僕にはひどい絵空事にしか感じられませんでした。彼らの殆どは、大きな世間の有り様や流れには表立って反抗などせず、自分の中で折り合いをつけ、内心をなし崩しに埋没させてしまって、時流に流され、或いは沈黙したまま人知れず誤魔化したり、屈託しながら取り残されたりしてしまうものではなかったか。
田舎の狭い世間のことではあったけれど、少なくとも自分はそういう年寄りたちに囲まれて育ちました。僕は彼等に、普段井戸端会議のような愚痴こそしょっちゅうだけど、自分が事に関わっている肝心な時には、決まって事を荒立てることをきっぱりと嫌い、物事を曖昧に流してしまうことへの苛立ちと、逆に簡単に自己と権利主張をしたくなる自分を、軽率で我が儘な現代っ子ではないかというコンプレックスを、ない交ぜになった形で持ち続けていました(今も、そうかもしれません)。なので、彼等の実際の自我の有り様のリアリズムを置き去りにしても、彼等の苦境として問題視し、代弁したいというかのように、強引な豪速球を投げてくる山田さんのドラマを、生意気を言えば嘘臭く、鬱陶しく感じていたところがありました。僕たちの本当の現実が、「大文字の」ニュースで語られるような遠い社会問題へとすり替えられて見えなくなってしまうじゃないか、という苛立ちも感じていました。
そんな自分の、山田さんへの印象が一変したのは10年程前のこと、とある福田恆存についての講演会に、ゲストとして山田さんが登壇されたのを拝見してからでした。
僕はもともと、どちらかというと気の弱い、急激な物事の変化に警戒心を持ちがちな保守的な人間だと自分では思っているのですが、山田さんが福田さんの『私の幸福論』(ちくま文庫・原題『幸福への手帖』)を愛読され、帯に推薦文を寄せられていることを、少し意外に思っていました。
しかしこの講演会で、山田さんが、いわゆる保守論壇の重鎮たちを前に、「世の中の趨勢や多数に阿らず、あえて懐疑する少数者であることに耐える強さを持つ思想を信奉することが、少数派であること自体を「価値」だと錯覚して、いつか少数者の集団に阿り、自由と強さを失ってしまうということがあります」「どういう方向からであるにしろ、現実をあまりにもわかりやすく斬る理念に対しては「ただのお題目なんじゃないか」と感じる。ところが、いつの間にか増殖してきた「おかしいぞ」という懐疑の声の中にいる自分もまた、逆の集団心理の中に埋没しかけているのではないか」と、ある意味その場に集まった人たちに冷や水をかけるようなことを、にこやかに淡々と話されているのを見て、この人は進歩派とか保守派とか簡単に括ってしまえる人ではないぞ、常にその時の自分を疑い続けるという形で、非常に頑固に柔らかな孤塁を守り続けられている人だぞ、という印象を強く持ちました。更に言うなら、保守的な人たちが群れをなして「保守主義者」となってしまうこと、こうした場の空気に埋没してしまうことは、実は福田恆存のいう保守的な生き方から最も遠いものではないかと、明晰に突きつけられていると、勝手に感じたりしていました。
山田さんは、決して(生きるため、考えるための足がかりとしての)理念を必要としていない方では無いと思います。真摯にその時の、リアルタイムの捉えがたい現実の中にいることを認めつつ向き合い、それをどう認識し、どう対していくべきかを考えてしまう、愚直といっていいくらいに真面目な方だと思います。
けれど、だからこそ、自分がある単一の理念に捕まってしまわないよう強く疑う。考える足がかりとなる理念を素手で捕まえようとする営為と同時に、それをいじめ抜き逆説を常に考える、実直で不器用なまでの振幅運動の繰り返しが、現在の僕にはとても信頼できると感じられるのです。
僕は、短期間にまとめて山田さんの作品に触れているので、或いはじっくりとリアルタイムの空気の中で作品を受け取ってきた先輩方に比べ、作品の意味と力を半分しかわかっていないところがあるかもしれませんが、山田さんの作品は、フィクションもエッセイも、実は最近のもの程、重い説得力を感じることが多いのです。何かを感じ入ったり、それを覆したりの振幅が、齢を重ねられるにつれて、更に深みと重量感、複雑さを増しているように感じられます。
近年のドラマでは『ありふれた奇跡』『遠まわりの雨』といった作品が、特に印象的でした。
ありふれた奇跡』では、加瀬亮さん演じる、営業職を挫折した青年が、恋人の父親役の岸部一徳さんにハートの弱さを徹底的に批判、否定される。あるいは、加瀬さんを心配して彼の家を訪れた陣内孝則さんが、元戦災孤児の苦労人の祖父を演じる井川比佐志さんに「そんな親切をわけもなくするヤツは魂胆を持っているに決まっている」と、冷淡に突き放される。二人とも、特に意地が悪い悪人ではない、平凡な、むしろ角度を変えればそれぞれに弱さも問題も抱えた好人物ともいえる人たちなのに、時に他者に対してここまで用心深く、冷徹に保身的で厳しい。こうした、怖ろしいような場面による人の多面性の描写は、一見奇矯て個性的(?)な人物たちが過剰なほど登場するようになった現在のドラマにあっても、他に例を見ない突出して生々しいものだと感じました。
表面的には豊かで優しい、むき出しの人間の怖い部分を忘れてしまいがちな現在に対して、山田さんのお父様が、少年時代の山田さんを相手に晩酌中繰り返し語られたという「世間てもんはな、お前なんかになんの情も関心も無い。いいような顔をする奴も、腹の中では冷たいもんだ。そう思って丁度いいんだ」との戒めの声が、ドラマの向こうに反響しているようです。
『遠まわりの雨』では、かつては名人と言われたヘラ絞り職人だった渡辺謙さんが、過去のいきさつを超えて昔の恋人と家族を助けるために(本当は彼自身にも、そんな暮らしの余裕はまったく無いのに)一肌脱いだにもかかわらず、あっさりと若手の職人のコンピューター計算に敗れてしまう展開が衝撃的でした。最近の山田さんは、『ありふれた奇跡』の井川さん、加瀬さんが演じられた左官屋さんはじめ、職人さん、それも立派な伝統に結びついて注目を浴びるような存在ではなく、名も無い仕事を確実、丁寧にこなすような市井の人たちに光を当てているように見えていただけに、ショックもひとしおでした(しかし、形に残るものは何も得られなかったけれど、彼と元恋人の夏川結衣さんに山田さんが一瞬だけプレゼントした「劇的瞬間」が素晴らしかった)。
山田さんは、沢村貞子さん、渥美清さんら故郷浅草の年長世代を偲んで、かつての下町気質の質実な暮らしぶりに深い敬意を表した名エッセイがいくつもありますが、かといってそれが現在にそのまま再現できるとも思われていない。敬意と哀惜を刻みつけながらも、現在の自分たちとの距離を、冷徹に見つめられていく。そして、そんな現在を生きていることに、批判と懐疑を繰り返し投げ続けるけれど、決して全否定したり、絶望や厭世に沈まれることも無い。ノスタルジーを否定はしないが溺れない。
時代を意識しながら時代と寝ることをせず、時代に欠けていることを気にかけながら反時代に固執せず、個人の限界を意識しながら集団への埋没には注意深く距離を取り、ある言葉に強く惹かれながら常に逆説に思いを馳せる。
自分の小ささ、無力や諦念を噛みしめながら、だからこそただの前提と踏みとどまる(だから、解決や気休めではなく、解決の無いこと自体が受け手の孤独に寄り添う)。
どこか書生のような若々しい緊張と瑞々しさと、深く複雑な成熟を併せ持ち揺れ続け、現在を生き続ける稀有な作家、山田太一さんの新作を、僕は今も楽しみに待っています。

(2016年7月、「入谷コピー文庫・特集・拝啓山田太一様」に寄稿)