今回のトークでも再認識させられたのだけれど、

リアルタイム世代のショーケンファンのみなさんのお話をうかがっていて僕が一番温度差を感じるのは、実は『前略おふくろ様』に対してです。
この際カミングアウトしてしまうと、僕は倉本聡がちょっと苦手なのです。
今、ちょうど『君は海を見たか』をお借りして見ているところで、とても密度の濃いおもしろいドラマであることは間違いなく、色々考えることも多いのですが、いつも倉本ドラマに感じるひっかかりについては、やはりというか、完成度が高いだけに違和感という形で自分の中にわだかまっていることが、より不安定で、だからなおさら生々しく感じられもしました。


倉本ドラマは『北の国から』をはじめ、現代に失われた庶民の実直さや誠実さ、不器用な人情にあえてこだわって自然に再発見させてくれる、というのがファンの大半からの受け取られ方だと思うのだけど、僕がいつもまず倉本ドラマを見て感じるのは「じつは、すごく人工的だな」ということだ。
大雑把に言って登場人物たち、そして彼等に投影される作者の人間観や道徳観が、とても生真面目で狭い。
庶民っていうのは実際にはもっと無意識でそれだけにある意味でいい加減で、そうであることがタフさやしたたかさに繋がっているようなものなんじゃないのか、といつも思う。(例えば『前略〜』と翌年放映された脚本石堂淑朗大和屋竺、監督工藤栄一 らによる『祭ばやしが聞こえる』を比較すると、前者の中で描かれる道徳感やそれにまつわる葛藤が、現代の感覚からすると随分大袈裟でカマトトっぽくも映るのに対し、『祭ばやし〜』の方は、基本的な人間観にほとんどずれや変化が感じられない)
けれど同時にこれが広く庶民大衆に受け入れられていることもどこか実感的によくわかる。
それは彼らが自分たちは本当はこうであると思いたいという、なんとなく共有する建前の部分にとても気持ちよくフィットするから。
生真面目なインテリである倉本が、「みんなが基本的には不幸で、生きることは大変である」という前提が曖昧になったために現代から失われつつある、実直とか誠実とか人情とかいったかつての庶民の中に美徳として共有されていたものへの憧れや郷愁に過剰にこだわったり、意味を求めたりすることが、そうした庶民のニーズと意識的にか無意識か曖昧なところでいい具合に共犯関係を形成できているように見える。
(対して、『祭ばやし〜』が、大方の人には「地味な人間の地味な話」としか映らないだろうことも、まあ仕方のないことだよなと思う)