あと、色さんのこの発言も印象的だった。

しかし、昔の人は一体に文章がうまいですね。電話ができてからだめになったんでしょう。無駄がないですからね。ほかの人が真似しても、百けん風じゃないから、にせものになっちゃう。文章力とは別に、実感に根ざしてる文章なんで。だから、さっき川村さんがちょっとおっしゃったけども、つまらないものになると、文章までひねってない、素朴な自然主義みたいな文章になっちゃう。

「子供の頃は梅干しが嫌いだったが、いつのまにか食っている。いつ、どうして食えるようになったのか思い出せない。生きることには形がなくて困る」
というような意味のことを、色川武大は繰り返し書いている。
色川武大は、百けんのように、元々天然のままさらっとわがままでいられるようなタイプではなかったと思う。けれど、では我侭なこだわりや、それゆえの不自由さがないかというと、そんなことはない。
自分の中の線引きがぐらつくから、意識的になる。

そのとき書き記した小説の出来は論外で、書き出しの一行以外は、すべて、終尾のために錯覚を物語っているか、終尾を目指さないために不明瞭になっているか、どちらかだった。思いだすさえ嫌な経験をしたが、爾来十六七年、私は小説というものから逃げるようにばかりしてきた。
私は転々と居所を変えた。そうして、気がついてみると、自分の来し方すらよくわからなくなってきている。もうひと息だ、という気がどこかでする。
もうひと息、混濁して、何が錯覚か、何が錯覚でないか、判定のつけようがないときまれば、あとに残る物は執着だけだ。執着に執着していくという生きかたは、わりに簡単そうに思える。(生家へ 作品11より)