色川武大×油井正一「日本に「モーニン」がやって来たころ」

ホンモノを見ちゃった

油井「ジャズ・メッセンジャーズは、やはり東京産経ホールで聞かれましたか」

色川「ええ」

油井「僕は初日の1月2日だったんです。すごい人でしたね。ホールのロビーで四斗樽を鏡開きして客にふるまい酒なんかして、大変な盛り上がりでした。各界の有名人もたくさん来ていた。なぜか非常に印象に残っているんですけれども、染五郎と萬之介ー今の幸四郎吉右衛門ーが2人とも暁星の制服姿で、吉右衛門のお母さんに連れられて来ていたんです。この3人がスペシャル席の8番目か9番目の列の真ん中の席に並んで「モーニン」を聞いている。
とにかく、ジャズはここまで注目されはじめたのかとビックリした。やはり、やはり一つのカルチャー・ショックだったんです」

色川「僕は友達に誘われてたまたま行ったんですけどね。これがちょっとうるさいジャズファンでしたけど。理屈じゃなく、熱くなってくるんです。それからぼくはモダンジャズのコンサートへタテ続けに足を運ぶようになった」

油井「翌年のホレス・シルヴァーとか?」

色川「いや、それは行ってないけども、そのあとのセロニアス・モンク・カルテット、キヤノンボール・アダレイ・セクステットには行ってる。
おおざっぱに言って、「モーニン」のあと2年ぐらいは黒人のモダンジャズにかなりのめり込んでました」

油井「メッセンジャーズ以前では何か外タレを聞いていますか」

色川「ノーマン・グランツのJ.T.S.P。あの日劇公演には自分から進んで行ってます。何故か、僕にはいくらか分かりやすかったですけどね。しかし、アート・ブレイキーのときは、これは本物を見ちゃったという感じだった。本物というのは、黒人のジャズーいやジャズというものにとじ込めなくても、ともかく本質を見ちゃったというねか…」

油井「「モーニン」を演奏したレコードはすでにお聞きになってた?」

色川「ラジオでは聞いてたかもしれない。僕の場合、レコードからジャズに入ったのじゃないんですよ。意識してレコードを買うようになったのが、ブレイキーが来たころからなんです。「そば屋の出前持ちまで「モーニン」を口笛で吹いた」って、あのころ。あれ、油井さんがおっしゃった…」

油井「ええ(笑)。
最初はね、NHKのリズムアワー(ラジオのジャズ番組)で言ったの。「ジャズ・メッセンジャーズは皆さんごぞんじでしょう。良い、良いという評判でみんな「モーニン」に惚れたんですが、1年たったら、そば屋の出前持ちまで「モーニン」を口笛で吹いて」って(笑)」

色川「僕も吹いてたかしら(笑)。でも、口笛というのは不思議なもので、鼻歌とか口笛に出てきた曲をメモしておいた時期があるんですけどね(笑)。何か無意識に出てくるんだろうと興味があってね。そのメモを見てみると、自分の趣味に合っていないものでも出てくる。あんなの好きじゃないと思ったものでも、どうして自分はこんなに下品なんだろうとか思っちゃうような曲まで出てきたり(笑)。「チンライ節」なんていうのがー勤労動員で工場へ徴用されて行ったときにそこの工員から覚えちゃったんだ。だから、僕が80歳ぐらいになってひょいと「モーニン」が口笛で出てくるかもしれない(笑)。メモをつけとくとおもしろいですよ。僕の場合、ですから、「モーニン」からモダンが始まったようなものなんです」

油井「でも色川さんのジャズ歴は古い」 

色川「たぶん珍しい例じゃかいかと思うけれども、最初が戦前、子供のうちなものですから、ミュージカルというか、当時のショー・ビジネスの映画。それから小劇場のレヴューからなんですね。ボードヴィルとジャズが分離できないところからなじんじゃった。そうやってなじんじゃった人がいるかわり、同時代の大きな存在なのに全く欠落しちゃった人もいる。何か非常にいびつな格好で入ってきているんですね」

油井「日本のボードヴィルというと、「あきれたボーイズ」とか」

色川「第2期の「あきれたボーイズ」は見てます」

油井「ほかにもいろいろいましたでしょう。「ホット・ボンボンズ」とか」

色川「あれは非常に良かった。
それから、戦前「音楽短編」と称する、バンドならバンドが2~3曲演奏するような短編映画がありましたでしょう。ミュージカル映画だけじゃなくて、そういう映画も見てます。だから、キャブ・キャロウェイなんかは小学校の低学年のころに知ったんです」

油井「キャブ・キャロウェイのもずいぶんありました。「ミニー・ザ・ムーチャー」を始め「セント・ジェームス病院」とかね」

色川「レイモンド・スコット五重奏団も映画で見てますよ」

油井「「トルコのたそがれ」。」

色川「ミュージシャンじゃないけれども、ニコラス・ブラザーズとかも。いずれにしても子供だったから、レコード買う小遣いまで持っていない。レコードを買うはじまりは、戦争に入ってからですね。敵性音楽のレコードだというので古レコード屋の床に捨て値で積んであったのを買ってみる…。須田町のレコード屋で」

油井「あの辺には古レコード屋がずらっと軒を並べてました」

色川「ヨーロッパのタンゴのレコードなんかのレコードもまじってるから、これはアメリカのだなと思うのを抜き出しては…」

油井「掘り出し物はありましたか」

色川「当時は大局的に見ていなかったから、どれが掘り出し物か、よくわからない。後から考えると、捨て値で売るようなレコードじゃないものがあったんでしょうね。ウディ・ハーマンあたりのレコードも結構あったですから。そうして買ったのはスウィングまでぐらいだった」

B29とジャズメン

色川「戦後になってモダンを聞いたんだけれども…当時はモダンと言ってませんでビバップでしたか…それで実に面食らったですね。でも、それは六つ下の弟のレコードだった。戦後のLPの初期、ものによってはひどく高い時代。日本ではまだジャズのレコードを出していない頃ですね。そのころ弟が非常に凝り出して、それにちょっと引きずられるような格好で聞いたんだ。僕はそのころ少々バクチにかまけてて、もう、ふらふら…」

油井「というと色川さんの『麻雀放浪記』、あれと一緒?」

色川「ほぼ似たような…。定住場所がなかったりしたもんですから、これまたレコードを買って置いておくという感じじゃない。親のうち空襲で焼けずに東京にあったんで弟はそこにいる。僕は飛び出したんだけれども、ときどき負け犬のように逃げ帰ったりなんかして、弟がモダンのレコードをかけるのを、どうも兄貴の権威が失墜したまま黙ってなんとなく聞いたということなんだけれども(笑)。そのかわりに、僕は古い方のジャズのうんちくを傾けていたんですけども」

油井「古い方でいうと、スウィング系?」

色川「それですけど、ブルースとか、黒人音楽の方をむしろ。それもWVTR(現FEN)が主だったんだけれど、聞いていると、ときどき非常に耳新しい音楽が流れる。それも初期のころのビバップなら、なんとなくこれがという感じでわかるような気がするんだけれども、チャーリー・パーカーあたりになるとしばらく面食らってしまうばかりで。そのうち耳に慣れて良くなっちゃったという感じがありましたけれども。
その面食らってた時期にバド・パウエルがわりと好きだったな。弟がレコードを持ってたのかな…。それから「クール・ストラッティン」(ブルーノートBLP1588)のソニー・クラーク。ピアノがね…」

油井「子供のころになじんでいたのはラッパ、管の音楽でしたけど、ジャズはラッパの音楽という概念が僕の中からちょっと消えて、ピアノばっかり聞いてた時期がやはり「面食らい」の時期にあるんです。ピアノといっても、僕にはファッツ・ワーラーとかのスタイルになっちゃうんだけれども」

油井「それは面白いや。そういえば、ファッツ・ワーラーはずいぶん短編映画にも出ていた。今でもビデオになってずいぶん残っているでしょう」

色川「余談になるけれども、古い話、空襲の時期にB29が焼夷弾を落としたりする、そうするとあれにファッツ・ワーラーが乗ってるんじゃないか(笑)。名前と顔だけなんだけれども子供のときからアメリカ人になじんでいたせいか、どうも戦争と一緒くたにならなかったんですよね。こっちはただ弾を落とされるだけで命からがら逃げ回っている。向こうは弾を落とすだけ。だけども、どうも親戚のオジサンみたいな感じもするし、これが戦争だなって感じを持った(笑)」

油井「それは僕もすごくよくわかる。僕はちょうどそのころ晴海の連隊本部付の兵隊だったから、そこで高射砲を撃ってまして。B29を撃ち落としながら、ここにベニー・グッドマンが乗ってるんじゃないか、グレン・ミラーが乗ってるんじゃないかなんて思ったりした(笑)」

色川「後にモダン・ジャズ・カルテットが来日したときに僕がそういったことをプログラムに書いたんですよね。誰かがその話を彼らにしたら、ベースのパーシー・ヒースが少年兵で、「実はオレB29で東京に空襲に行ってたんだ」と、そう言ってました。実に、うつむいて(笑)」

 

アングラだった黒人ジャズ

油井「色川さんは早くから黒人だと…。黒人ということで言えば、ジャズはアメリカの黒人がつくった音楽であるということはうすうす分かっていても現実に黒人の音楽として聞いた人は余りいなかったのね。ジャズはすでに大正中期から日本に入って来ているんだけれども、大正9年に益田太郎男爵のご子息がジャズをなさってたりとかね。それから戦争前にはやったダンスホールで盛んにジャズを演奏していたりするんだけども、みんな白人系ジャズ。ベニー・グッドマンの音楽であり、ポール・ホワイトマンを聞いてきたとか。レッド・ニコルスは良いとか、みんなそういう話になる」

色川「僕自身はちょっとひねくれてて、子供のころからわりに黒人の方が好きだったけれども。白人系のスウィング・バンドは別に嫌いじゃなかったけれども、どちらかというとファッツ・ワーラーだとかの黒人の方に感情移入してましたね。
ただ、最初レコードから入らなかったものだから、たとえば後になってルイ・アームストロングの初期の「ウエストエンド・ブルース」あたりのレコードを聞いたとき、これを子供のときにレコードで聞いていたらもっとちゃんとした評価ができたな、と思いましたね。
映画に出てくるからルイ・アームストロングのことは、あのすごいトランペットの音でもよく知っていたわけですけれども、映画に出てくるアームストロングはそれこそ黒人タレント風に扱われていたんですね」

油井「本当の話、南里文雄でも戦前のアイドルは全部白人。本人は上海でテディ・ウェザーフォードという黒人に習ったとは言うんだけれども、実際はレッド・ニコルスがお手本であり、戦後もボビー・ハケットなんて言ってて、ルイ・アームストロングの生演奏を聞いてビックリして、初めてサッチモ先生なんてやり始めたぐらいだから。
戦後の日本でウケたグループでも、ジョージ川口のビッグ・フォーならジーン・クルーパ・トリオ、渡辺晋のシックス・ジョーンズならジョージ・シアリングクインテットみたいなグループだったでしょう。今度レコードが出たフランキー堺のシティ・フリッカーズにしてもスパインク・ジョーンズに範をもっている。みんなそういうお手本は白人だった」

色川「秋吉敏子とかの、パウエル風の人たちもいましたね」

油井「ええ、黒人系のミュージシャンもいたけれども、アングラでね。秋吉敏子にしてからが、有楽町の「コンボ」という喫茶店コッペパンをかじりながら、バド・パウエルのレコードをコピーしていたぐらいだもの。「もう一回そこをかけて」なんて言いながら。あの当時バド・パウエルのようなモダンの演奏をしてもお客は来なかったのね。ジーン・クルーパとかベニー・グッドマンとかのような演奏をしないとお客は来なかった。
そういう具合でずっと来ていたから、ファンキー・ジャズのアート・ブレイキーの来日とかち合ったとき、一つのカルチャー・ショックとなった。観念的に黒人のジャズというものがあるということは知っていても、本当にアート・ブレイキーを目のあたりに見るまではそれを信用しなかったようなところがあったのね。
だから、黒人のモダンジャズがアッと驚くほどの評価を得たのはブレイキーの来日後。秋吉敏子渡辺貞夫といったパウエル、パーカー系のミュージシャンが本当に日の当たる場所に出てきたのもそれ以後です。宮沢昭でもね。
その意味では、アート・ブレイキージャズ・メッセンジャーズの来日というのは、日本文化史上の大事件であった」

植草さんの影響力

油井「色川さんの「面食らい」の時期に、耳に慣れて良かった人で、ほかには?」

色川「クリフォード・ブラウンですね。ラッパはもうクリフォード・ブラウンにとどめを刺すなって。ああいう物凄いラッパはもう2度と出てこないと今でも思っているけれども」

油井「出てこない。確かに別格ですよ。あれだけすばらしいラッパは類を見ません」

色川「ひねくらないラッパ。表道というか…だから、ジャズ・メッセンジャーズリー・モーガンのラッパを聞いたときは、最初、クリフォード・ブラウンの音も似てるなと(笑)。だいたい、メッセンジャーズのあの音がファンキーの音だという知識もなかったころだから、体系的に聞いていない」

油井「いや、モーガンはブラウンと非常に共通していました。クリフォード・ブラウンもブレイキーのところで演奏したりしているでしょう。その『バードランドの夜』(ブルーノートBLP1521/1522)なんか、当時僕らラジオの番組やっててよく流した」

色川「それからマイルス・デイヴィスですか、あれは僕にはモダンの教科書的なラッパに聞こえたんですね。マイルスはスタイルが変わって行くから、何故か追って聞いていくとモダンの手ほどきを受けたような気になっちゃうところがあった。
まあ、そういう感じで、僕にとって、モダン以前とモダンの橋渡しみたいなプレイヤーがいたんですが。でも、いまだに僕はちゃんとわかってないんじゃないかと自分では思うんです」

油井「いや、モダンジャズが熱心に聞かれだしたのはそもそもそう古いことじゃないですから。色川さんがのめり込む1年か1年半ぐらい前から、急にですよ。そこに植草甚一さんが、大分重要な役を演じたんですがね。
植草さん自身が急にジャズに凝りだした人でもあるんですけれども」

色川「いつごろから?」

油井「57年に急に。
でも筋の良い人で、日本で売り出すレコードにはあまり目もくれない。もっぱら新宿あたりの外盤屋(輸入レコード屋)ーマルミ・レコードとかーへ行ってはモダンジャズの外盤をごっそり買い込んで片端から聞いたんです。自分の書斎に寝る椅子をつくって、600時間ぐらい」

色川「そりゃすごい」

油井「ええ。チコ・ハミルトンに始まってソニー・ロリンズに行き、そこからチャールス・ミンガスに行って、という具合で。その植草さんがジャズのことを書き始めたので、植草さんが聞くんなら聞いてみようといって聞きだした詩人だとか芸術家だとかがたくさんいた。そしたら、これは面白いものがあるというわけで。あの当時、ものすごく社会的反響を呼びましたね。
その植草さんを入れて、野口久光さんや僕、藤井さんといったメンバーの「ビクター・モダンジャズ蒐集集会」というのが59年につくられているんです。アーサー・フランクという映画の親玉のつくった「トップランク」というレーベルとビクターが契約したんですけれど。これはアメリカのアトランティックとかユナイテッド・アーチスツといったレーベルと契約していたから、ビクターが国内発売できる。ついでルーレットのレコードも出せるということになって、伊藤信也さん(現・日本フォノグラム社長)がその蒐集会をつくって監修に当たらせた。
59年の9月新譜ぐらいから第1回発売で、それが『モダン・アート/アート・ファーマー』(ユナイテッド・アーチスツ)、その次が『モダン・ジャズ・カルテットとソニー・ロリンズ』(アトランティック)、次いで『プレンティ・プレンティ・ソウル/ミルト・ジャクソン』(アトランティック)、それからルーレットのスタン・ゲッツ

色川「とすると、どういうモダンジャズのレコードが日本で最初にウケたんですか」

油井「やはりソニー・ロリンズの『サキソフォン・コロッサス』(プレスティッジ)でしょうね。これもその蒐集会で出してる。ちょっと遅れたんですけど、1年かそこら。プレスティッジはトップランクが最初契約できなくて。
やはり「ビクター・モダンジャズ名盤蒐集会」から「モーニン」の入った『サンジェルマンのジャズ・メッセンジャーズ』(RCA)という実況録音盤を出してる。60年の1月新譜。そしたらこれがその1年間に売れに売れているところに、本物のアート・ブレイキージャズ・メッセンジャーズが来日するというので大騒ぎになったわけ」

 

ブレイキーの2つの「モーニン」

油井「『サンジェルマン~』は売れに売れたけれども、相当のジャズファンは輸入盤でブルーノートの4003番の『モーニン』を買っていましたね。(RCA盤はジャズ・メッセンジャーズが欧州旅行でパリに立ち寄った際のライヴ録音。ブルーノートの『モーニン』はそのツアーに先立ち本国アメリカで正式にスタジオ録音されたもの)
当時、岡山でしたか、モダンジャズの熱烈な愛好家のグループから盛んに「スイングジャーナル」誌に投書が届いたんですけれど、それがーRCA盤の「モーニン」が騒がれているがそれは本当は知らないからであってブルーノート盤の「モーニン」の方がもっと良いーというような投書なの。
ブルーノートが実に69年まで海外プレスを許さなかったから、輸入盤でしか買えなかったのね」

色川「熱心なファンがちゃんと買っていて、そうやって言ってくる」

油井「なぜ海外プレスを許さなかったかというと、前に一度、フランスのレコード会社にプレスを許したときに金銭面のゴマカシに遭ってるわけ。オーナーのアルフレッド・ライオンは、それ以来、一切海外プレスを許さなくなったんだ。入用ならば輸入盤として出すからどうぞ、という行き方で来た。
だからまあ、ジャズのエリートたるを誇るような人が輸入盤を買うのね。お金があれば買えたんだ」

色川「輸入盤は値段が高かったですからね」

油井「だいたい3000円から5000円じゃなかったですか。なかなか買えない」

色川「当時としちゃバカ高いもの」

油井「今の若い人の感覚でいくと、3000円がどうしてそんなにバカ高いかと疑問を持つかもしれないけれども…」

色川「昭和30年初期のころに、「月給1万3千何百円…」とかって歌がはやっていましたでしょう」

油井「ブレイキーから2年後(63年)に現キョードーの長島達さんがナット・キング・コールを招聘したときに、入場料が4000円。当時としてはバカ高い値段だったのでお客さんの入りが良くなかったって、高い値段をつけすぎたって、長島さんがずっと後に反省の手記を書いておられた。そんな時代ですからね。(61年のジャズ・メッセンジャーズ公演のS席は1800円)
本当のところ、こんなに高いレコードを買って自分のウチで聞くよりは、ジャズ喫茶へ行って2時間でも3時間でもネバッてリクエストして聞いてる方が安いからって、それでジャズ喫茶が繁盛していたでしょう」

色川「あんまり客が動かないんで、店主がハリー・ジェームスのうんと俗悪なやつをかけるとみんなあきれて帰っちゃう(笑)」

油井「結構ジャズ喫茶へ行かれた?」

色川「ええ。映画を観るよりはジャズ喫茶に入る時間の方が多かったですね。ふらふらしていましたから。渋谷に何件か、それから御茶ノ水、新宿と…。ただ、僕には当時のあの雰囲気がちょっといたたまれないような、僕が居ちゃ悪いような…(笑)
このあいだ一関の「ベイシー」にちょっと寄ったら、あそこではLPかけても1曲でやめちゃうんです。マスターの菅原君が自分の思う曲を1曲ずつ。自分で何か演出しているんですね。あれだと、わりとジャズ喫茶のマスターもいい商売だな、面白いなと思った。客が乗らないと1人で怒ったりね(笑)」

油井「モダンジャズ繁栄の裏には、べらぼうに景気が良かったということがあると思うんです。56年の神武景気、それをぐんとしのぐ59年の岩戸景気。その59年の4月に皇太子殿下がご成婚になってパレードがあるというんで、テレビを買おうということになる」

色川「それまで街頭テレビでしたね」

油井「そうしてテレビが普及したもんだから、ステレオを買おうという気が後回しになっちゃった。ステレオは59年ぐらいに普及しなくちゃいけないわけだったんだけれども、テレビの方が先に普及しちゃったから、レコード買うのも後回し。それでジャズ喫茶へ行って聞こうということになったわけ」

色川「TBSでしたか、来日ミュージシャンのジャズの時間が結構ありましたよね」

油井「ええ。石原康行さんという非常にジャズに熱心な方がいて、来日したジャズメンを片っぱしから録音して流してる。ブレイキーも、モンクも、キヤノンボールも、MJQもみんな。そのころのビデオがちゃんと残ってる」

色川「あれのモンクは良かった」

25年目の「マウント・フジ」

油井「ジャズのビデオはよくごらんになるんでしたよね」

色川「ええ」

油井「じゃあ「ワン・ナイト・ウィズ・ブルーノート」(東芝EMI)はごらんになりました?」

色川「見ました。相当見ごたえがありますね。顔ぶれからしてスゴイ」

油井「ええ。新旧ブルーノーター、28人を集めてる」

色川「あれだけのメンバーを集めちゃうというのは、やはり、相当権威のあるレーベルなんでしょうね」

油井「そうですよ。アルフレッド・ライオン自身、強い信念で動いていましたからね。「ワン・ナイト~」のときに会えて、話を聞けたんですけど、ビデオには映っていないけれども、あの日ライオンも会場のタウンホールに来ていたんです。それが実に、67年に引退してから、そうやってジャズの場に現れるねが初めて。ずっと、ジャズ関係者の誰も居所を知らない。伝説の人だったんですけれど」

色川「その間、ジャズにはノー・タッチ?」

油井「そうです。カリフォルニアで療養生活を送ってたの。心臓が悪くて。ブルーノート時代、夜と昼とをとっちがえた生活をしてたのが…。奥さんが、ジャズのジの字も言わせない。厳重に監視していた。
マイケル・カスターナやブルース・ランドヴァルが「ワン・ナイト~」にぜひ来てもらいたくても連絡がとれなかった。そうこうするうちにライオンの方からカスターナに連絡が入った。そうしてライオンの出席が実現したわけです。奥さんの厳しい監視付きでしたけれども」

色川「じゃ、今度の「マウント・フジ」でも、無理を押して…」

油井「ええ。もうじき80歳ですからね。「ワン・ナイト~」のとき、我々日本勢がライオンをつかまえて熱心に話を聞くやら、ライオンの功績に感謝の意を尽くすやら、大騒ぎだったんですよ。奥さんも、うちの主人がそんなに日本で認められてるのなら今生の思い出にと」

色川「これはまたすごいメンバーにライオンさんも出席とくれば…」

油井「「ワン・ナイト~」の拡大版。今度は40人ですから。これが「モーニン」の来日からちょうど25年というわけですね。もちろん、アート・ブレイキーも来るけれども…」

色川「もう四半世紀たってるのか。ブレイキーは、何回も来日しているからそうは感じないな…」

油井「ええ、いやんなるほど来てる(笑)。その間、ブレイキーは「最初の観客はどこへ行ったのか」なんて嘆いたこともあったりしましたけどね(笑)でも、近ごろはまた脚光を浴びているんですから、そういう良い雰囲気の中で大観衆を前にして、思いっきりやってくれるでしょう。25年前の「モーニン」を再現できるほどにね」

(別冊週刊読売86年9月号「史上最強のジャズ・レーベルブルーノートのすべて」)