河出ムック『内田百けん』を読む。

今年の河出ムックは、装丁も執筆陣もツボを押さえまくった山口瞳特集や(今出てる号からQJ編集長になった森山さんの名前の誤植は可哀そうだったけど...)、単行本未収録原稿300枚収録!、伊集院vs村松対談もスイングしてる色川武大vs阿佐田哲也特集など、このてのムックらしからぬディープな好企画を連発していた。


今回もなかなかそうそうたるメンツ。内田百けんについては微妙な俺としては、目玉は川村二郎、色川武大の対談だったんだが...
先日の「反ロマン主義」の話とやや繋がるのだけれど、川村氏の発言にひんぱんに出てくる、「いかに生きるべきかとか、倫理的なテーマには興味がない」といった物言いには、正直「またかよ...」と辟易させられた。いや、観念や意味やイデオロギーがあまりにも支配的だった時代への反動だってことはわかるんだけれども、反意味、反イデオロギーっていうのも、そこだけにこだわり過ぎちゃうとそれもある種、平板で抑圧的なイデオロギー的スローガンになっちゃってるよな、と。実際この風潮、文学に限らず現代の文化全般について、いまだ支配的だしね。

「いやだからいやだ」、この言い方はほんとにいやという実感がある。(笑)何の説明にもなってないけど、少なくともいやという存在は」

「あの気難しくてわがままな気質が対象と直面するでしょう。普通の人だともう少し力の比較とか、あるいは気難しくてわがままだけでは文章にはならないと思うところが、内田百けんはそこでつくっちゃう。逆にそこで売ってるようなね。だから、気難しさやわがままさが手に及ばない範囲のことは、、あんまりツボにはまらなくなっちゃう」

こうした言い方で色さんが説明しているような、百けんのしれっとずうずうしい感じというか、天然で生理の強い感じというのが、俺にとってビミョウなところ。ただ、このての種類の文章が全部苦手かというとそうでもなくて、武田百合子さんなんかも大きく分ければこの種類に属するけれど大好きだし、田中小実昌も今はかなり好きだ。加工されてない生の声のヴィヴィッドさが気持ち良い。で、百けんについては「いやだからいやだ」とまでは言わないが「ビミョウだからビミョウ」としか、結局言いようがない気がするし、そういう付き合い方が、このタイプの書き手との付き合いとして穏当な気がしている。
こうした生理や味覚って、食いモノの好みみたいなもので、歳と共にいつのまにか変化していたりするものでもあったりするしね。