唐十郎「色川武大を演じられるのか」(「海燕」91年5月号)

色川武大氏の舎弟と思っている人は、かなりの数で、僕は遅れてきたファンだった。あの時は、僕の「下谷万年町物語」という芝居の打ち上げ楽日で、『ハードボイルドだど』の流行語を、昔はやらせたコメディアンのKさんが、色川さんと飲んでいた。「話の特集」の矢崎編集長に、前に紹介されたことがあったが、色川さんの視線は冷えていて、少し恐い気がした。コメディアンKさんに手招かれ、色川さんの前に再び出ると、お酒も入っていたのか、色川さんはまるで違う人だった。
この頃、僕は色川さんの書いたものを、ニ、三本読んでいて、最も好きなのは、一つの短編であり、そこで、小さな弟と浅草へ遊びに行った頭でっかちの(うすのような)兄が、夕まづめの、帰らなければならない時間になって、都電の駅で、なかなか来ない電車を待ちながら、辺りの気配が暗くなっていくごとに、弟が「来ないよお」と、兄をゆさぶり、その声を聞いている兄のほうも、都電が、絶対に来ないような気になっていく、苛立ちをおぼえるその文章が、僕の胸に深く残っていった。
ハードボイルドだどのKさんに手招かれたそのきっかけで、僕はこの夜、遅れてきた舎弟になってしまった。その飲み屋で、二度目に会った夜、この時は、コメディアンのKさんは居らず、色川さんの相当に古い舎弟が一人居たが、僕は色川さんに妙な使いっ走りをやらされた。といっても、どこかに走らされたわけではなく、店の赤電話に三十円を掴まされ、メモした所に電話をかけろと言われただけなのだが、また、相手が電話に出たならば、それは固有の女性であり、すぐ、ここに来いと言えと託されたわけであり、ダイヤルを回すと、相手の女性が出てくるのには少し時間がかかった。ちょいとお待ちをの声の後に、人のざわつく気配と鉦の音なども聞こえ、そこは何をやっている場所か判断しかねた。「今、呼びにいってます」と、もののニメートルも離れてない所で酒を飲んでいる色川さんに伝えると、優しげに色川さんはうなずいた。この時、僕になぜ電話をかけさせているのか分からなかったが、色川さんの笑っている人なつっこい目尻をみていると、そんな疑いは消えてしまうのだ。
はあいと相手の女性は遂に出て、何用かと言うので、すぐ、こちらに来るように色川さんが言ってますと伝えると、今、宅が死んで葬式の最中だと向こうは答えた。
これには、僕も強要できないと、色川さんに、それも目の前に等しき所にいる色川に言うと、それでも来るようにと、色川さんは命じるのだ。
笑いながら、口の中に余った唾液を舌の裏ですすりあげるようなチェッという音をさせ、甘ったるく彼は笑う。
「それでも来て下さい」と伝えると、なぜ、こんな時にからかうのかと、相手の女性は泣きだした。「泣いてます」と、僕が伝えると、そのては喰わぬと色川さんは言う。そればかりは、口伝しきれず、僕は赤電話の前で、ただうろたえるだけだった。そのうちに、こうした光景はどこかで見たようでもあり、これはチンピラだ、昔チンピラの兄貴分と子分が、暇にまかせて遊ぶ時のパターンだと気がついた。色川さんを観察すると、グビリと一杯やりながら、目尻は笑い、その座っている体は椅子ごと床から微かに浮いているようでもあり、が、このやりかけた冗談から足を抜く間もみつけられず、色川さんを観察しても、どこかマジのエーテルに包まれている。
去年の夏、色川さんはもういなかったが、僕はテレビの二時間ドラマ「恐婚」で、色川武大を演じた。この撮影中に、いつも思い出していたのは、その夜のことである。
日活のスタジオに、色川さんの奥様が見に来られ、生前の色川さんとドラマ中の色川氏を比較され、唐さんのほうが神経質ねと一言のもとに批評された。妙な使い走りをしてしまったあの夜のことを思うと、神経質になってしまうのかとも思えたが、僕の演じた色川さんはそんなに神経質でなく、のほほんとしている。が、それも奥様の目から見れば、神経がトガっている側の人間かもしれない生物の領域に入ってしまうのだ。とはいうものの、あの短編で読んだ兄の神経、都電が来ないと震えている弟の手を握って、その弟の神経に感染している色川氏ほど、きゃしゃなものはない。僕の色川氏を演じる窓口はそこだった。では、新宿の飲み屋で、僕に使い走りをさせた色川氏とはどこで、それが結がるのか。それを応用するような場面は、シナリオ中、女房と離婚したその日、水風呂で、女房の名がある表札と水の中で遊ぶところや、女房の再婚の席に現われ、知り合いの仲人に見つかると、スタスタ帰ってしまうひと駒にあったが、演じられたものは、茶目っ気のあるフェティシズムの領域を出てはいない。
あの飲み屋の夜、二人で味わったものは、冗談の中にも黒い爪のようなものがあった。チンピラの残影が、酒を荒んだものに変えていた。と書くと、また恐ろしくなって、どこか違ってしまう。
奥様が言う「神経」と、あの夜の「冗談」を結ぶには、色川氏の病気…ポストに手紙を投函しかけて眠ってしまうという場面を作らなければならないようだ。現在、第二弾の準備中であるので、そのことをライターに言ってみようと思っている。

(「海燕」91年5月号)

色川さんと唐さんの間には、拘束も固定した力関係も存在していないからそうは言えないけれど、これが固定した世間の人間関係の中で行われ、やられた方がパワハラだと訴えれば、今ならパワハラということになるだろう。唐さんはそんなふうには思わなかっただろうけれど、そうした拘束の無い冗談の中に、優しく繊細な人の中にふいに覗いたサデァスティックな荒みの痕跡のようなものを確かに感じたから、こうして強く印象に残ったのだろうと想像する。そして、こうした荒みは、繊細で意識的にならざるを得ないような人にこそ、強く刻まれるものではないかとも思う。
この時の色川さんと同列に語っていいのかどうかわからないが、チンピラでなくとも、僕の時代の運動部や不良仲間の上下関係の中でも、こうした無理難題を命じて、困惑する相手の様子を見て楽しむという光景は、ごく日常的なものだった。僕は過敏で虚弱な方だったから、自分は決してこんな真似はすまいと強く反発したりもしていた記憶があるけれど、かといってそういう先輩や友人に抗議するような勇気があったわけでもなく、また、ちゃっかり忘れているだけで 、もっと幼い頃に弟や下級生に対して似たような気持ちをぶつけていなかったとは到底言い切れない。
「あってはならない」「許されることではない」こうした断言が、今はあまりにも簡単に、その場の勢いや思い込みだけでなされ過ぎると思う。仕方ないというのではなく、こうした黒い気持ちは自分の中にもまま生まれるものだから、そう意識して自制しようという努力や姿勢は大切だけれど、あってはならないと言ってしまうと、あってしまう人間性というのがこの世の埒外に置かれて、まず向き合うこと自体が厭われるようになってしまう。そして、却って陰にこもり、拗れていく。
自分たちを善人だと信じようとしすぎ、思いすぎて、却って世の中も言葉も空々しくなっていると感じることしばしばなので、時々こうした黒い気持ちに敢えて光を当てて、書きたくなる。